豊田喜一郎 豊田喜一郎の概要

豊田喜一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 05:22 UTC 版)

とよだ きいちろう
豊田 喜一郎
豊田の肖像写真
生誕 1894年6月11日
日本 静岡県
死没 (1952-03-27) 1952年3月27日(57歳没)
出身校 東京帝国大学工学部卒業
職業 第2代 トヨタ自動車工業社長
配偶者 豊田二十子
子供 豊田章一郎長男
豊田達郎二男
西田百合子(長女
斉藤和可子(二女
豊田佐吉
栄誉 従五位勲四等瑞宝章
日本自動車殿堂殿堂者
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トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。

来歴・人物

夢と学びの科学体験館刈谷市)。豊田喜一郎の足跡が紹介されている。

豊田佐吉と佐原たみ(佐吉の妹の友人で最初の妻)の長男として生まれる。1892年(明治25年)から夫婦は東京市浅草外(当時の浅草区千束町)に住んでおり、里帰り出産のため静岡県敷知郡吉津村山口(現在の湖西市山口)で生まれるが、出生3か月のとき、貧困の中家庭を顧みることなく発明に没頭する夫に愛想を尽かした母親が家出したため祖父母の家で育つ[2][3]。3歳で父・佐吉の住む愛知県名古屋市(現・同市東区)に転居し、東区武平町や西区島崎町栄生町の工場内に住む。のち名古屋市白壁町の家に住む[2][4][注釈 1]。高岳尋常小学校(現名古屋市立東桜小学校[1]、愛知県師範学校附属小学校(現愛知教育大学附属名古屋小学校[1]、旧制明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、第二高等学校(現東北大学)甲組工科を経て、1920年東京帝国大学工学部機械工学科卒業[2]

卒業後、父・佐吉の意向で、経営者になるため9月から東京帝国大学法学部で1921年3月まで学んだ。その後地元の名古屋に戻った喜一郎は、豊田紡織に入社。1921年7月から1922年2月まで豊田利三郎夫妻とともにサンフランシスコロンドンオールダムなどを視察しマルセイユから上海経由で帰国した。父には発明より経営に重点を置くように指示されていたが、碧海郡刈谷町に試験工場を作り、自動織機の開発を開始。1926年に豊田自動織機製作所を設立し、常務取締役に就任。1929年から1930年4月まで欧米に出張し、当時、黎明期にあった自動車産業が将来大きく発展すると考え[2]、1933年9月1日に豊田自動織機製作所内に自動車製作部門(のちに自動車部)を新設。1936年に自動車製造事業法の許可会社に指定されたことから、これが1937年にトヨタ自動車工業株式会社として独立し、同年同社の副社長に就任。1941年には社長に就任した[2]。1936年から事業のため一家で東京市本郷区曙町(現本駒込)の借家に転居[2]。1938年、工場のために田畑を移すのを避けたいという思いから、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の荒地だった58万坪の土地を取得し、自動車工場を建設した。同年赤坂に家を買い転居したが、1945年5月に空襲により焼失。名古屋市八事の別荘「南山農園」で終戦の日を迎える。終戦後は食料確保のため庭でドジョウの養殖や、ウズラの飼育を行った。別荘はその後1997年まで豊田章一郎一家が住んだのち、トヨタ鞍ヶ池記念館に移築された[5][6]

1949年のドッジ・ラインの影響で不況に陥った中、トヨタ自動車の債務も増大し、早期優遇退職を行う経営側と全日本自動車産業労働組合トヨタコロモ分会の対立が激化。事態の責任をとるため、1950年6月に社長を退任し、東京に研究所を設立し、エンジンの研究などを行った。

1952年には再び社長に就任することが内定するが3月27日脳溢血のため死去。墓所は覚王山日泰寺。 その後、喜一郎の死から2年と半年以上が経つ1955年1月1日、彼が生前に関わっていた国産乗用車、トヨペット・クラウンが発売された [7]。 (また、同じく1952年3月には東洋工業(現マツダ)の創業者である松田重次郎も9 日に死去している。)

豊田市役所に建立された豊田喜一郎の像

愛知県豊田市(挙母市)の発展に大きく貢献した実績から、豊田市役所の広場には銅像が立てられている。死去から49年後の2001年3月、豊田市の名誉市民となった。

2001年に創設された、日本自動車殿堂の殿堂者に選出され[8]2018年には、アメリカ合衆国自動車殿堂入りを果たした[9]

没後70年となる2022年3月、愛知名誉県民の称号を授与された。

親族


注釈

  1. ^ 『現代人名情報辞典』には愛知県のみ記載

出典

  1. ^ a b c 『とよたを創った男 豊田喜一郎』 野口均 ワック
  2. ^ a b c d e f 『産業情報シリーズ4 豊田喜一郎伝』 国際出版研究所
  3. ^ 日本自動車産業のパイオニア豊田喜一郎(1894-1952)トヨタ自動車工業 神奈川県立図書館「社史と伝記にみる日本の実業家-人物データと文献案内」、平成24年3月
  4. ^ 『現代人名情報辞典』 平凡社
  5. ^ 「豊田章一郎(4)ドライブ 米国車で工場用地見学 東京へ転校「佐吉の孫」と話題 」
  6. ^ 「豊田章一郎(5)戦争 「先行き厳しい」父が予見 赤坂の家は空襲受け焼失」
  7. ^ 「豊田章一郎(8)父の死 社長復帰目前に倒れる 「現地現物で学ぶ」一生の教え 」
  8. ^ [1] 近代自動車産業の創始と育成 豊田 喜一郎 特定非営利活動法人日本自動車殿堂
  9. ^ [2] トヨタ創業者 豊田喜一郎が米国自動車殿堂入り 2018年7月20日 トヨタ自動車 ニュースリリース
  10. ^ a b c 「トヨタ自動車工業株式会社・トヨタ自動車株式会社」『トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|歴代役員|歴代の会長・副会長・社長(含 受章歴)トヨタ自動車2012年6月末日


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