英西戦争 (1585年-1604年) 英西戦争 (1585年-1604年)の概要

英西戦争 (1585年-1604年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:40 UTC 版)

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英西戦争
八十年戦争

無敵艦隊、国立海事博物館 (en、ロンドン
1585年 – 1604年
場所大西洋イギリス海峡低地諸国スペインスパニッシュ・メインコーンウォールアメリカ州
結果 ロンドン条約 (en[1][2]
衝突した勢力

スペイン王国

イングランド王国
ネーデルラント連邦共和国
フランス王国
指揮官
フェリペ2世
フェリペ3世
アルバロ・デ・バサン
パルマ公
メディナ=シドニア公
ヒュー・オニール
シャルル・ド・ロレーヌ
エリザベス1世
フランシス・ドレーク
ジョン・ホーキンス
レスター伯
チャールズ・ハワード
マウリッツ・ファン・ナッサウ
アンリ4世
アントニオ・デ・ポルトゥガル

イングランドは1587年カディス港襲撃や1588年アルマダの海戦で勝利したが、1589年ア・コルーニャリスボンで撃退された遠征(イングランド無敵艦隊 (en)によって主導権を失ってしまう。スペインは更に2回の無敵艦隊を派遣したが、悪天候のために頓挫している。

アルマダの海戦の敗北から10年でスペインは海軍を強化し、その後は新大陸からの貴金属輸送の護衛に成功している。イングランドはその後の戦いのほとんどに敗北しているが、世紀の転換期のブルターニュアイルランドでの戦役で戦争は膠着状態に陥った。

戦争は、スペイン王フェリペ3世と新たにイングランド王になったジェームズ1世の代表団の話し合いによる、1604年のロンドン条約 (enで終結した。スペインとイングランドは各々アイルランドとスペイン領ネーデルラントへの軍事介入を止め、イングランドは外洋上での海賊行為を放棄することで合意した。両国は各々の目的の幾つかを達成したものの、戦争によって両国の国庫は破綻しかかっている。

背景

フェリペ2世

1560年代カトリック教会の擁護者スペイン王フェリペ2世は宗教および商業上の理由により、イングランドの政策と対立していた。カトリックが正統なイングランド王として認めないプロテスタントエリザベス1世イングランド国教会の宗教儀式を必須とし、カトリックのミサを挙げたり、出席する者を投獄して罰していたため、カトリックを敵に回していた[3]。加えて、イングランドはネーデルラントのプロテスタントを援助するようになり、次第にスペイン政府と敵対するようにもなっている。

フェリペとカトリック教会は、テューダー家の血を引くカトリックのスコットランド女王メアリーこそが正統なイングランド君主であると考えていた。1567年にスコットランドで反乱が起き、メアリーは幽閉されて幼い息子のジェームズへの譲位を強いられた。その後、メアリーはイングランドへ逃亡し、エリザベスは彼女を幽閉した。続く約20年間、エリザベスやジェームズの敵たちは、メアリーをいずれかの国もしくは両国の王位に就けようと陰謀を続けている。

スパニッシュ・メインカリブ海沿岸地域)や大西洋でのイングランド私掠船の活動(スペインにとっては海賊)は、スペイン王室の収入に甚大な打撃を与えていた。ジョン・ホーキンスによって1562年より始められたイングランドの大西洋奴隷貿易は(西インド諸島のスペイン植民地との貿易はスペイン政府から密輸であると抗議を受けているにもかかわらず)エリザベスの支持を受けている。

エリザベス1世

1568年9月、ホーキンスとフランシス・ドレークの率いる奴隷狩り遠征隊が、メキシコのベラクルス近くのサン・フアン・デ・ウルア (enでスペインの奇襲を受け、数隻の船が沈められた。この交戦によって英西関係が悪化し、そして翌年にはスペインがネーデルラント駐留軍の補給のために派遣した数隻の財宝船を、イングランドが抑留している。ドレークとホーキンズ、そしてその他の私掠船は、大西洋におけるスペインの独占を打破するための海賊行為を激化させた。

1577年世界一周航海に出発したドレークは、新大陸のスペイン領を略奪して1580年に帰還し、イングランドに莫大な富をもたらしたが、一方でスペインを激怒させている[4]

プロテスタント信条を自らの生き残りのための核心であると考えるエリザベスは、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)やスペインに敵対するオランダ人の反乱(八十年戦争)のプロテスタント軍に援助を与えた。一方、フェリペ2世はプロテスタントの拡大に激しく反対しており、フランスのカトリック同盟やアイルランドの第二次デズモンドの乱 (en1579年から1583年まで続いたアイルランド・カトリックの反乱)を支援していた。

1584年にオランダ人反乱軍を支援していたアンジュー公フランソワフランス王アンリ3世の弟)が死去し、続いて反乱軍の指導者であるオラニエ公ウィレム1世が暗殺され、反乱軍は大きな打撃を受けた[5]ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの侵攻によってネーデルラント諸都市が陥落し、エリザベスは対応を迫られた。

1585年8月20日、エリザベスはオランダ人とノンサッチ条約 (enを締結し、兵員、軍馬そして援助金を与えることで合意した。フェリペ2世はこれを自らに対する宣戦布告であると受け取る。

イングランドのネーデルラント介入

『オランダの雌牛を飼育するエリザベス』
ネーデルランド派兵の風刺画。作者不明。

イングランドは、スペインからの独立を宣言したプロテスタントのネーデルラント連邦共和国の側に立って八十年戦争に参戦した。イングランドのネーデルラント派遣軍は、エリザベスの寵臣レスター伯に率いられた。

当初からエリザベスは、この戦争を本気で支持はしていなかった。彼女の戦略は、表面的にはオランダ人をイングランド軍で支援しつつ、レスター伯がネーデルラントに到着したその日から秘密裏にスペインと交渉することであった[6]。これはネーデルラントで戦うことを期待され、また自らも望んでいたレスター伯の意向と対立するものであった。一方でエリザベスは彼に「敵との決定的な対戦をいかにしても避けよ」と求めている[7]。彼はスターテン・ヘネラール(オランダ議会)から総督の地位を受け、エリザベスを激怒させていた。エリザベスはこれを、それまで彼女が拒否していたネーデルラントにおけるオランダ人の主権を認めさせようとする策略であると見ていた[8]

総督就任を認めず、「私によって引き立てられ、誰よりも寵愛した男が、命令に背いて私の名誉を汚した」とレスター伯を激しく非難したエリザベスの「命令」(commandment)は、レスター伯が臨席するスターテン・ヘネラールで彼女の使者によって読み上げられた[9][10]。この公の場での女王の総代官に与えられた恥辱と、彼女がスペインと秘密交渉を続けていたことにより[11]、オランダにおける彼の立場を取り返しがつかないほどに弱めてしまった[12]

軍事行動は、エリザベスが飢えた兵士へ約束していた資金送付を繰り返し拒否したことにより、ひどく妨げられた。イングランド軍と反乱軍は劣勢に陥り、ネーデルランド諸都市が次々とスペイン軍の手に落ちた[13]。戦争への彼女のやる気のなさとレスター伯自身の軍事的・政治的指導力の不足、そしてオランダ政治の党派分裂と混乱した状況が、戦役の失敗の原因であった[14]。結局、レスター伯は1587年11月に召喚され、ジョン・ノリス (enと交代した[15]


  1. ^ The Pirates' Pact: The Secret Alliances Between History's Most Notorious Buccaneers and Colonial America. McGraw-Hill Professional, 2008, p29. ISBN 0-07-147476-5
  2. ^ Channing, Edward: A history of the United States. Octagon Books, 1977, v. 1, p158. ISBN 0-374-91414-1
  3. ^ 1581年にエリザベスはイングランドに潜入したイエズス会の宣教師を処刑しており、カトリック弾圧を強めていた。石井、pp414-416
  4. ^ 石井、pp405-405
  5. ^ 石井、p422
  6. ^ Strong and van Dorsten, p43
  7. ^ Strong and van Dorsten, p72
  8. ^ Strong and van Dorsten, p50
  9. ^ Chamberlin, pp263–264
  10. ^ 石井、p429
  11. ^ エリザベスの駐仏大使は、スペイン王のイングランド全面侵攻に対して時間を稼ぐべく、スペイン王の真意について積極的に彼女を誤解させていた。: Parker, p193.
  12. ^ 石井、p429
  13. ^ 石井、p431
  14. ^ Haynes, 15; Strong and van Dorsten, p72–79
  15. ^ 石井、p433
  16. ^ 小林、p117
  17. ^ ルイス,p12
  18. ^ 荒川、p68
  19. ^ 小林、p117
  20. ^  Herbermann, Charles, ed. (1913). "The Spanish Armada". Catholic Encyclopedia. New York: Robert Appleton Company.
  21. ^ 小林、p119
  22. ^ 荒川、p69
  23. ^ 小林、p118
  24. ^ 荒川、p79
  25. ^ 石井、pp473-474
  26. ^ 石井、p499
  27. ^ 石井、p477
  28. ^ 青木、pp157-158
  29. ^ 石井、p505
  30. ^ 石井、p554
  31. ^ Ulm, Wes: The Defeat of the English Armada and the 16th-Century Spanish Naval Resurgence. Harvard University, 2004





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