聘珍樓 聘珍樓の概要

聘珍樓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/28 08:19 UTC 版)

株式会社聘珍樓
Heichinrou Co. Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本
222-8577
神奈川県横浜市港北区新横浜2-2-8
アーバンセンター新横浜8F
業種 小売業
法人番号 8020001115812
事業内容 中国広東料理レストランの経営・菓子・食料品の製造販売その他フードビジネスの経営
代表者 林衛(代表取締役社長)
外部リンク https://www.heichin.com/
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社名 [3]

社名の聘珍樓の意味は、「聘」は迎える心、「珍」は尊ぶ心。また、別の意味で、「良き人、素晴らしき人が集まり来る館」。

「良き人、素晴らしき人が集まり来る館」という意味合いを持つ聘珍樓の屋号の由来は、中国古代の文献である「 礼記(らいき) (禮記) 」に収められた「儒行」の一節、「儒有席上之珍以待聘(儒者は宴席の佳肴の如きで、良き人品と道徳を備えて招聘登用されるのを待つものだ)」にあった。

孔子を始祖とする思考・信仰の体系である儒教の教えをまとめた経書の中で「四書」と「五経」の総称を「四書五経」と言う。四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」をさす。その中の「礼記」は主に秦以前の礼儀作法について述べられ、あわせて孔子とその弟子との問答をまとめたもの。九万字に及ぶ著書は修身や礼儀作法について述べているが、内容は幅広く政治、法律、道徳、哲学、歴史、祭祀、文芸、日常生活、暦法など多方面に及ぶ。「礼記」に収められた一篇の「儒行」の中に孔子と弟子の問答があり、その一節に「儒有席上之珍以待聘」とある。この一節は孔子が弟子の質問に答えたもので、「儒者は宴席の佳肴の如きで、良き人品と道徳を備えて招聘登用されるのを待つものだ」という意味。そこから「席珍待聘」と言う四字熟語が生まれ、「才能ある者が登用され招聘任命されるのを待つ」という意味に使われるようになった。「席珍」とは宴席に供される佳肴をさし、転じて「才能のある者」を言う。「待聘」とは「登用されるのを待つ」の意となる。「席珍待聘」の四字成語から、聘珍樓の屋号はこの書物の一節にちなむ命名であった。この一節でも佳肴を意味する「珍」を「才能ある者」の「珍」としてたとえてある様に、「聘珍樓」も「良き人、素晴らしき人が集り来る館」と解して佳肴と人を総じて語ってある。

ロゴ

聘珍樓のロゴは1988年にALAN CHANがデザイン。その意味は、バスケットには6種類の果物が入っており、桃子(もも):長寿、百合(ゆり)・蓮根(れんこん):永遠に続くお互いの愛、茘枝(らいち):豊な実り、佛手柑(ぶっしゅかん):富と健康、石榴(ざくろ):子宝の意味。

創業年

[4] 創業は1887年とされてきたが、2009年は横浜開港150周年であり、「開国博Y150」が開催され、それを機に横浜開港資料館が「横浜中華街150年」を編集・刊行した。その中で「聘珍樓」の特集記事が組まれ、当該資料[5]には、聘珍樓が1884年(明治17年)の創業であること、中華街の中でも創業以来同じ屋号で現在の中華街大通りに面する同じ敷地で営業を続けているのは聘珍樓を含む2店舗しか存在しないことなどが記載されていることがわかり、2009年に創業を1887年から1884年へと修正した。

歴史

聘珍樓横浜本店(明治後期)
聘珍樓横浜本店(昭和初期)

創業及び設立(1884年 - 1974年)

聘珍樓の創業は1884年[4]。張姓の華僑が現本店所在地に中国料理店を開業。当時は1階にたばこ店などがあり、蒲鉾形の窓を配した2階店舗であった。その後、張茂元が引継ぐ。関東大震災(1923年)で瓦解したものの、後に鮑荘昭、鮑金鉅(ホウ・キンキョ)の父子が継ぎ、これを復興。当時、日本にあった中国料理店では山下町135番地にあった会芳楼(現在は山下町公園にあずまやの会芳亭が記念に立つ)や遠芳楼に次いで古い店。一時は三百坪の大型店で一度に200名〜300名収容できる大広間があった。しかし第二次大戦で再び荒れ果て、鮑金鉅はこれを再建する意欲を失う。その時友人であった龐柱琛(パン・チュウシン、のち日本に帰化して林達雄と名乗る)は「聘珍樓の過去の栄華を考えると忍びない」として1960年頃に鮑金鉅から聘珍樓ののれんと土地建物を買い受けた。龐柱琛は中国廣東省高明県(現佛山市高明区)に生まれ、19歳で横浜に来て30歳まで苦節を重ねたが異国の地での希望を失っていったん故国へ帰ったものの、再び夢を求めて来日し中国料理のコックとして修業を積み、一国一城の主を夢みていた。聘珍樓は明治・大正にかけては大型店ではあったが、震災や戦災などの影響で龐柱琛が買い受けた際はわずか45坪ほどの焼き豚や腸詰めを売る店になっており、1967年に有限会社を設立したころには、聘珍樓が考案したサンマーメン(生碼麺)やその他の一品料理を手軽に楽しめる小型店になっていた。1975年、息子である林康弘が事業を継承するころには、聘珍樓は80坪程の店になっていた。

林達雄と横浜中華街

林達雄

林達雄は聘珍樓の再建者というだけではなく、現在の萬珍樓も創業。当時達雄が自ら音頭をとり、街の仲間達とともに中華街大通りに「中華街」と表示した高さ15メートルの朱塗りの牌楼(ぱいろう)を横浜市の助成などの援助を受けて建てた。横浜中華街の萬珍樓の成功後、買い受けた聘珍樓を再建し、街の発展にも貢献した達雄は、1972年に第二の故国となった日本へ帰化し、1976年11月、この地に骨を埋める。その功績により1969年2月に昭和天皇から勲五等瑞宝章を賜るという栄誉に輝く。

牌楼建設

龐柱琛への感謝状

[6] 1954年(昭和29年)9月10日、牌楼建設工事が着手された。 当時の平沼亮三横浜市長と半井清(なからいきよし)横浜商工会議所会頭は、アメリカを視察し、横浜の戦後復興の一策として、横浜中華街を戦前の様な特徴ある街に再建し観光の呼び水とすることが必要だと提唱した。 この呼びかけに地元華僑が共鳴し、神奈川県と横浜市、横浜商工会議所などが協力して、牌楼建設の計画が持ち上がった。 こうした動きの中心となったのが、当時の横浜華僑総会の会長薛来宏、留日広東会館会長龐柱琛、陳洞庭ら横浜華僑と横浜の日中両国人の親睦団体である日中協会常務委員の金子光和である。金子光和は戦前よりへ京浜日華協会を発足させるなど、日中友好に尽力した人物で、日中両国人の信望も厚く牌楼門建設委員会の会長に推挙された。金子は建設のために、寄付金集め、設計案の調整、中華街側と役所側との橋渡しと東奔西走の活躍をした。その甲斐あって地元華僑や日本人の有志八十余名の寄付金と、神奈川県と横浜市からの助成金をあわせ、133万円あまりの資金が集まった。工事は寿建設が請け負い、1954年8月17日に地鎮祭が行われ、9月10日に工事が着手された。そして翌年に鉄筋コンクリート建て、高さ13メートル、幅18メートルの極彩色の中国牌楼が完成した。門には、「春秋左氏傳」から引用した「親仁善隣」の言葉を刻んだ額が掲げられた。1954年、戦後復興への願いを込めて牌楼が建設され、その後東西南北の門が造られていった。そして初代牌楼から40年後、中華街では四つの牌楼(朝陽門、延平門、朱雀門、玄武門)の改築が進められた。その担い手は初代牌楼の建設に情熱を注いだ華僑の息子たちである。

支店の開設(1978年 - )

吉祥寺聘珍樓本館(1978年2月開店、現在は閉店)、日比谷聘珍樓(1980年3月開店)、吉祥寺聘珍樓新館(1988年11月開店、現在の名称は吉祥寺聘珍樓)、溜池山王聘珍樓(2000年5月開店)、小倉聘珍樓ANNEX(2000年7月開店)、大阪聘珍樓(2006年11月開店)

香港現地法人(1988年 - )

1988年に現地法人聘珍樓香港有限公司設立。日本から中国料理店を出店。

  • 香港店舗:
    • 觀塘 聘珍樓
    • 鑽石山 聘珍樓
    • 金鐘 名都酒樓
    • 馬鞍山 名都

業容の拡大(2000年 - 2010年)

1990年代には、各百貨店の惣菜コーナーへの出店を拡大。またこの頃、金森製造所を開設し、肉まんそして点心等の商品製造ラインを増強し、ギフト(中元・歳暮)の取扱いも含め拡大する。
更に、杏仁豆腐の素、中華調味料などの商品を開発し商品として販売。その後、順次、商品ラインナップを増やしていく。
2000年には、配送センターを横浜市港北区に開設し、食品事業の業容の拡大に対応。
2000年にインターネット通販事業に参入。ショップ名は「29man.com」その後「聘珍ショッパーズ」に変更。
2006年に「聘珍樓」⇒「中国料理」⇒「医食同源」の考えから健康補助食品事業に参入。「燕の巣」サプリメント販売。
2007年に創業120周年記念イベントを開催。
2008年4月 ダイドードリンコ株式会社とコラボレーションしたペットボトル飲料のジャスミン茶を「聘珍茶寮」のブランド名で販売開始。その後、プーアル茶、春ブレンド茶、夏ブレンド茶を発売している。
2009年11月 中国国家旅遊局(日本の観光庁に相当)と広東省政府が共催で開催した第1回中国広東料理サミット「首届中国粤菜峰会」において代表取締役林康弘が、ベスト・カントンフーズの提供により広東料理の普及と地位の向上に寄与し、健康及び安全に対する信頼を高めたとの評価を得、「推動粤菜発展功勲人物」(広東料理発展推進功労者)に選ばれた。[3]

注釈

  1. ^ 1991年より総料理長制開始

出典

  1. ^ a b c d 「聘珍樓横濱本店」一時閉店 中華街の老舗、移転で15日”. 神奈川新聞 (2022年5月13日). 2022年5月13日閲覧。
  2. ^ 「聘珍樓横濱本店」を経営、(株)聘珍樓(横浜市中区)が破産。(東京商工リサーチ)”. Yahoo!ニュース. 2022年6月2日閲覧。
  3. ^ a b c 聘珍樓オフィシャルホームページより引用
  4. ^ a b 『横浜中華街150年 落地生根の歳月』(横浜開港資料館 2009年)より
  5. ^ 『横浜中華街150年 落地生根の歳月』P.47(横浜開港資料館 2009年)より
  6. ^ 横浜開港資料館所蔵文献より引用


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