総理各国事務衙門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/06 08:42 UTC 版)
沿革
設立の背景
清末期以前、外交機構はその相手・地域によって担当が決められていた。つまり外務省にあたるような、対外関係を一元的に扱う部署が存在していなかった。例えば冊封によって朝貢してくる国との通商事務は礼部が、外蒙古・青海・西蔵・新疆といった藩部やロシアとの通商外交は理藩院が、唯一外国との交易を許した広州での貿易事務(広東システム)は両広総督が担当していた。つまり当時の外交は下記のように特徴づける事ができる。
- 外交を統べる役所は存在せず、管轄ごとに個々に対応していた。
- 『外交』自体が朝貢を前提としていたため、交易はしても朝貢はしない諸外国(フランス等)との外交部署は存在しなかった。
特に西洋諸国との公式な外交部署を持たない事に西洋諸国は不満であった。それでも紛争が広東省辺りで収まっていたアヘン戦争当時の1840年代頃までは、その地方を管轄する両広総督に欽差大臣(特命全権大臣)を与えてしのいでいた。だが1857年のアロー戦争によって両広総督府が陥落し、翌年には天津まで制圧されたとなると、既に問題は両広総督の手には余った。1858年6月にイギリス・フランス・アメリカ・ロシアと天津条約を結んでその場を収めるが、条約を一向に批准しない清国政府に業を煮やした英仏連合軍は1860年10月に北京を制圧し、北京条約を結ばせてしまう。そして北京条約締結後にイギリスとフランス代表は清朝に対し、外務省に当たるものを設立するよう求めた。
この天津条約・北京条約の中で、清の外交制度として課題になるのは以下の点についてである。
- 両広総督管轄外の港の開港
- 各国公使の北京常駐
- 天津条約の時点では「各国外交官の北京常駐」だったのが、北京条約では「各国公使の北京常駐」になっている。各国が公使である以上、必然的に清国も国として相対する部署を用意する必要が生じた。
これらの課題を解決するためには、中央に一元的な外交機構が必要と考えた恭親王奕訢・大学士桂良(グイリャン)・戸部左侍郎文祥(ウェンシャン)らが1861年1月11日に上奏し、3月11日に正式に総理各国事務衙門が成立した。これまでの清の外交方針を大転換させたこの組織は、後の変法自強運動の先駆けともいえる組織であった。
外交上の作用と没落
総理衙門には外交政策の決定権はなく、あくまで決裁者は皇帝(事実上は西太后)もしくは軍機大臣であった。だが設立当初は恭親王が首席軍機大臣を兼ねていて、他の軍機大臣達にも睨みが利いたため、ほとんどの事案は素通り状態であった。
1860年代、恭親王主導の総理衙門は効果的に機能した。北京条約の対応をこなしつつ、1868年には天津条約の関税問題に取り組んだ。またその一方で同文館出身者の欧米派遣に取り組んだ。1866年には総税務司ロバート・ハート[2]の帰国に随伴する形で、斌椿(ビンチュン)を代表とする最初のヨーロッパ使節団を派遣している。また、1867年にはアメリカ公使アンソン・バーリンゲーム[3]を欽差大臣に任命し、欧米諸国に派遣している。
だが、総理衙門の推進役だった恭親王が西太后によって排斥され、1870年に李鴻章が北洋通商大臣に就任すると状況は変わってくる。総理衙門のメンバーも李鴻章も同じ洋務派であることに違いはないが、貿易港全体を管轄するとはいえ既に全権とは言えない総理衙門に比べ、貿易港は天津に限られるとはいえ李鴻章は欽差大臣として全権を持っている。広州貿易が中心だった頃ならともかく、既に各国公使は北京に常駐しており、貿易の中心も北京から近い天津へと移っている。そうなると各国公使としては、天津で実権を持つ李鴻章と話をした方が早いのである。こうして実質的な外交の中心は、総理衙門のある北京から北洋通商大臣のいる天津へと移っていき、日清戦争の頃には天津の李鴻章こそが事実上の外務省となっていた。
創設時に比べ著しく影響力の低下した総理衙門は1901年、義和団の乱後の北京議定書の条項に従って廃止され、新設の外務部が創設された。
- ^ 天津条約で開港を約束したのは、牛荘(奉天省)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、汕頭(広東省)、瓊州(海南島)、南京(長江沿岸)の10港
- ^ ロバート・ハート(英:Sir Robert Hart、中:羅伯特·赫德, 1835年 - 1911年)は、1853年から1908年まで清に滞在した中国通。祖国イギリスでは男爵位に叙され、清朝からも1889年に正一品官に任ぜられた。
- ^ アンソン・バーリンゲーム(英:Anson Burlingame、中:蒲安臣、1820年 - 1870年)の欽差大臣任命:通常であれば外国公使を大臣に任命する事は有り得ないが、この時は「他に適任無し」として恭親王から上奏して認められた。この使節団はアメリカからヨーロッパに渡り、イギリス・フランス・プロイセン・ロシアを歴訪した。
- ^ 総理衙門の大臣数は、初期は3~5人だったが、後に9~11人に膨れ上がった。
- ^ 但し海関総税務司署を統べる総税務司は「最大貿易国がイギリスである限りはイギリス人を登用する」という約束に従って、代々イギリス人が務めていた。
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