盂蘭盆会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 07:30 UTC 版)
歴史と習俗
中国
盂蘭盆会に関する最早期の資料は竺法護訳の『般泥恒後灌臘経』、『仏説盂蘭盆経』、『経律異相』などで仏教上の儀礼としては六朝梁の頃には成立していた[3]。
咸淳5年(1269年)に南宋の志磐が編纂した『仏祖統紀』では、梁の武帝の大同4年(538年)に帝自ら同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられている。『仏祖統紀』は南宋代の書物なので梁の武帝の時代とは、約700年の隔たりがあり、一次資料とは認め難い。しかし、梁の武帝と同時代の宗懍が撰した『荊楚歳時記』には、7月15日の条に、僧侶および俗人たちが「盆」を営んで法要を行なうことを記し、『盂蘭盆経』の経文を引用していることから、すでに梁の時代には、偽経の『盂蘭盆経』が既に成立し、仏寺内では盂蘭盆会が行なわれていたことが確かめられる。
唐代から宋代には中国の民俗信仰を土台として盂蘭盆、施餓鬼と中元節が同じ7月15日に行われるようになり、儀礼や形式、作法などにも共通性が見られるようになるなど道教の行事との融合が進んだ[3]。
南宋代になって、北宋の都である開封の繁栄したさまを記した『東京夢華録』にも、中元節に賑わう様が描写されているが、そこでは、「尊勝経」・「目連経」の印本が売られ、「目連救母」の劇が上演され好評を博すほか、一般庶民が郊外の墓に墓参に繰り出し、法要を行なうさまも描かれている。
ただし、中国の歴代王朝は制度的には仏教と道教を明確に分ける宗教政策をとっており、特に唐代からは儒仏道の三教を認めつつも互いに競わせたという歴史的要因から、あくまでも国家祭祀などではこれらを区分することを建前とした[3]。
日本
日本では、この「盂蘭盆会」を「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も広く行なわれている。この時に祖霊に供物を捧げる習俗が、いわゆる現代に伝わる「お中元」である。
古くは推古天皇14年(606年)4月に、毎年4月8日と7月15日に斎を設けるとあるが、これが盂蘭盆会を指すものかは確証がない[注 2]。
斉明天皇3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記され、同5年7月15日(659年8月8日)には京内諸寺で『盂蘭盆経』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されている[注 3]。後に聖武天皇の天平5年(733年)7月には、大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中の恒例の仏事となって毎年7月14日に開催し、盂蘭盆供養、盂蘭盆供とよんだ。
奈良、平安時代には毎年7月15日に公事として行なわれ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」(せがきえ)をあわせ行なった。また、明治5年(1872年)7月に京都府は盂蘭盆会の習俗いっさいを風紀上よくないと停止を命じたこともあった。
現在でも長崎市の崇福寺などでは中国式の盂蘭盆行事である「(普度)蘭盆勝会」が行われる。
主として現代日本における風習についてはお盆もあわせて参照のこと。
注釈
出典
- ^ コトバンク「盂蘭盆会」
- ^ コトバンク「盂蘭盆」
- ^ a b c d e f g h 荒見泰史. “香港の盂蘭勝会の現状と餓鬼供養”. 広島大学. 2019年4月23日閲覧。
- ^ a b 「年中行事事典」p97 昭和33年(1958年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版
- ^ a b 『岩波 仏教辞典』p62 1989年 12月5日第一刷発行 中村元ら編 岩波書店
- ^ 岡部和雄「「盂蘭盆経」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)」、小学館。
- ^ a b 辛嶋静志 (2013年7月25日). “「盂蘭盆」の本当の意味 - 「ご飯をのせた盆」と推定”. 中外日報. 中外日報社. 2017年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月18日閲覧。
- ^ Karashima, Seishi (March 2013). “The Meaning of Yulanpen 盂蘭盆 ––– "Rice Bowl" on Pravāraṇā Day”. Annual Report of The International Research Institute for Advanced Buddhologyat Soka University 16 (1): 289-302 .
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