甲府城 復元

甲府城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 02:11 UTC 版)

復元

甲府城跡の史跡整備と復元計画

廃城・解体後は中央本線の開通により分断され、その後も石垣以外はほとんど手付かずの状態だったが、戦後は史跡整備のための舞鶴城公園整備事業に先だって1992年(平成4年)から山梨県埋蔵文化財センターや県教育委員会、土木部などによる発掘調査が行われ、甲府城跡総合学術調査団が組織されて総合的な調査が行われており、復元整備が開始された。これまでにいくつかの曲輪や門の整備が行われ、2003年(平成15年)に稲荷櫓が、2007年(平成19年)には分断された北側の山手渡櫓門が復元された。

復元された建造物

稲荷櫓

2004年平成16年)に復元された二重櫓。城内の北東に位置することから艮櫓とも呼ばれた。

鍛冶曲輪門

鍛冶曲輪と楽屋曲輪を結ぶ門。1996年(平成8年)に復元された。

内松陰門

屋形曲輪と二ノ丸を結ぶ門。1999年(平成11年)に復元された。

山手御門

山手門(やまのてもん)は本丸北側に位置する。遺構は残っておらず、現存する絵図や、明治時代の測量図、古写真などから、低い石垣の上に土塀を設けた追手枡形の塀を持つ、高麗門の形式をとっていたものと見られる。[14]2007年(平成19年)に復元された。

鉄門

甲府城鉄門(くろがねもん)は本丸南側に位置する。左右に石垣を有した2階建ての櫓門。創建当初は「南門」と呼称され、『楽只堂年録』宝永2年(1705年)条に拠れば柳沢氏時代に改称され「鉄門」と呼ばれるようになった。

鉄門の創建に関しては不明であるが、諸記録や絵図から文禄・慶長年間の築城期から江戸初期にかけてと推定されている。改修に関しては、南アルプス市在家塚の年未詳「在家塚村瓦資料」に拠れば瓦の葺き替えに関する記録があるのみ。1876年(明治9年)頃に解体され、消失した。

鉄門とその周辺地域では1993年(平成5年)・1997年(平成9年)に発掘調査が実施され、露出していた9箇所の安山岩製の礎石や天守曲輪へ続く石段の遺構が確認された。遺物としては瓦類があるが、本丸内のものが含まれている可能性が指摘される。

舞鶴城公園整備事業において2004年(平成16年)度には稲荷櫓の復元が完成し、次の整備計画として鉄門と銅門の復元が検討された。2010年(平成22年)には鉄門の復元が決定され、甲府城跡櫓門復元検討委員会が組織された。

両側の石垣の状態は良好と評価され、解体修理は行われず補修工事のみが行われた。復元に際しては文献史料や絵図、古写真などの関連史料の調査が行われ、江戸初期の姿を念頭にした復元を行う方針となる。

復元工事・石垣の補修は基本的に伝統工法に基いて行われたが、構造計算上必要とされた補強材は取り入れられた。建材は国産材を用いて復元が行われ、2013年(平成25年)に完成。

天守

天守台(2014年5月8日撮影)

そもそも天守が存在していたのか否かについて、議論や検証が続いている。市街地活性化の観点からも多方面から強く注目されており、整備事業においては復元も希望されている。特に文献史料においては宝永3年に甲斐国を訪れた荻生徂徠が『峡中紀行』において甲府城天守は存在しなかったとする証言を残しており、総合学術調査団などの見解では天守の存在に関しては否定的であったが、萩原三雄ら考古学方面では出土した金箔瓦や鯱瓦などは各地で天守を持つ城郭を築造している豊臣系大名特有のもので、近世甲斐の地勢的条件からも一時的ではあるが天守が存在していた可能性を指摘している。一方、文献史料においては現在に至るまで復元の手がかりとなる絵図古文書などは確認されておらず、民間に向けても懸賞金をかけており、資料の捜索が続けられている。

2008年には、文献史学・考古両面の調査委員会により発掘調査で鯱瓦などが出土したことや新出絵図類の検討から、新たな門の存在や松本城に匹敵する[15]天守の可能性のある近世初期の高層建築遺構の存在が指摘されている。一方で調査委員会の報告書においては天守の存否に関しては文献・考古両面からも確定的な判断を下せる資料を見いだせないことから復元・新造論に関しては否定的見解を示している。このように有識者の間でも見解は統一されていないが、「天守閣など甲府城復元・整備推進会議」は2014年の4月から9月まで天守再建などを推進する署名活動を行った[16]

2015年より外部有識者からなる「甲府城跡総合調査検討委員会」が発足し、後藤斎知事も選挙公約で復元について言及しているが、2017年3月27日に山梨県教育委員会が2年間かけて調査した結果でも「(天守閣の)存在を示す直接的な資料は見当たらない」となった[16]

山梨県庁舎防災新館の工事中に内堀の石垣が出土され、この石垣は同館地下1階で遺構を復元し展示されている。


  1. ^ 平成31年2月26日文部科学省告示第20号。
  2. ^ 史跡等の指定等について”. 文化庁 (2018年11月16日). 2022年5月7日閲覧。
  3. ^ 平山 1993, pp. 11–13.
  4. ^ 平山 1993, p. 18.
  5. ^ 平山 1993, p. 19.
  6. ^ 平山 1993, p. 14.
  7. ^ a b c 山梨県立博物館 2011, p. 7.
  8. ^ 富士山NET
  9. ^ a b c d e 飯田文弥・坂本徳一著『写真集 明治大正昭和 甲府』ふるさとの想い出 10、図書刊行会、昭和53年、国立国会図書館蔵書、2019年3月22日閲覧
  10. ^ 県指定史跡甲府城跡に鉄門が復元整備されました”. 山梨県. 2013年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月7日閲覧。
  11. ^ 鉄門への道”. 山梨県. 2022年5月7日閲覧。
  12. ^ 山梨県立博物館 2011, pp. 155–156.
  13. ^ a b c 山梨県立博物館 2011, p. 156.
  14. ^ 望月祐仁他編著『甲府城跡山手御門 甲府市歴史公園山手御門埋蔵文化財の試掘調査・発掘調査・整備報告書 甲府市文化財調査報告50』甲府市教育委員会、2010年。
  15. ^ 甲府城本丸から出土した鯱瓦は推定130センチメートルで、現存する松本城天守全長130センチメートルの鯱瓦と同規模である。
  16. ^ a b 存在しなかった(かもしれない)甲府城天守閣を「再建」したい地元の言い分”. タウンニュース (2014年6月10日). 2014年11月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月7日閲覧。





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