田上菊舎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 14:30 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動経歴
長門国豊浦郡田耕(たすき)村(現在の下関市豊北町田耕)に田上由永、母タカの長女道(みち)として生まれた[1]。1768年(明和5年)、同じ村の村田利之助に嫁いだものの、6年後に夫が死去[1]。その後、長府の五精庵只山に師事し「菊車」の号を授かり、田上家に復籍する[1]。
1781年(天明元年)、萩の清光寺で得度した後[1]、美濃派宗匠朝暮園傘狂を訪ねて入門して「一字庵」の号を授かり[1]、越前・越後・奥羽と「奥の細道」の逆コースを辿る大行脚に出る[2]。1783年(天明3年)、菊車の号を菊舎に改号[2]。その後も全国行脚を続けた。
1811年(文化8年)、京都大徳寺で茶会を催し、翌年には奈良法隆寺で特別に中国伝来の開元琴を演奏した[1]。1812年(文化9年)俳諧紀行文『手折菊』を刊行[1]。1826年(文政9年)、長府にて死去、満72歳[1]。
菊舎は初め俳人として世に出たが、書・画・(七弦)琴・茶の湯・和歌・漢詩にも精通した[1]。
外部リンク
- 1 田上菊舎とは
- 2 田上菊舎の概要
固有名詞の分類
- 田上菊舎のページへのリンク