海援隊 沿革

海援隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 05:32 UTC 版)

沿革

亀山社中

亀山社中(現亀山社中記念館)

従来の通説では、慶応元年閏5月(1865年6月 - 7月)、幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、薩摩藩や商人(長崎商人小曽根家など)の援助を得て長崎の亀山(現在の長崎市伊良林地区・北緯32度44分55.52秒 東経129度53分12.53秒 / 北緯32.7487556度 東経129.8868139度 / 32.7487556; 129.8868139)において前身となる亀山社中が結成され、当初は貿易を行い交易の仲介や物資の運搬等で利益を得ながら、海軍、航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していたとされる。これは坂本龍馬が神戸海軍操練所時代に考えていた実践でもあり、目的はこれらの活動を通じて薩摩藩と長州藩の手を握らせることにもあったとされる。「亀山社中」は、長州藩が薩摩藩を経由して武器を購入する仲介を果たしたとされてきた[2]グラバー商会などと取引し、武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で購入、長州へ渡すなどの斡旋をした)。

こうした通説に対して、2010年代以降は以下のような指摘および主張がなされている。

まず、結成当時龍馬は長崎に不在だった可能性があり、実際に結成に立ち会ったのは近藤長次郎高松太郎らである[3]。また「亀山社中」という名称も当時付けられたものではなく[3]、「社中」という名乗りが見られるだけである[4]。結成に際しては薩摩藩の小松帯刀が近藤や高松らと同道して長崎入りし、「亀山社中」のメンバーには薩摩藩から一人3両2分が支給された[3]

グラバー商会から武器を買う交渉をした長州藩の伊藤博文(当時は伊藤俊輔)は後年の回想で「鉄砲を買う方は直接外国人に買った」と述べ、同じく井上馨(当時は井上聞多)は薩摩藩との接触に高松・近藤らの紹介を経たが「薩摩藩」名義の使用は小松帯刀との直接交渉で許しを得たと述べており、一坂太郎は「亀山社中」の取引への関与の度合いを「謎」として、「亀山社中」を商社や株式会社のようにみなす見解を疑問視している[5][注釈 1]町田明広も、「社中」の実態を「薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団」として「海軍や商社などとするのは事実誤認」と述べている[6]

慶応元年7月には近藤が井上聞多とともに小松の帰国に同道し、薩摩藩に1か月近く滞在する間に大久保利通(当時は大久保一蔵)・桂久武伊地知壮之丞らの要人と話し合った[7]。井上の後年の回想では、このとき近藤は薩摩藩士に対して、薩長が手を結んで幕府を倒し朝廷に政権を戻して国家統一と開国をなすべきと説いたという[7]

これらを通じて険悪であった薩摩と長州の関係修復を仲介し、1866年3月、薩摩の西郷隆盛(吉之助)・長州の木戸孝允(桂小五郎)を代表とする薩長盟約の締結に大きな役割を果たしたとされる。こうした活動について町田明広は、この時点での近藤らは薩摩藩が小松帯刀を通じて庇護・活用した脱藩浪士集団に過ぎず龍馬の関与もなく、「この段階の社中が、後の龍馬の海援隊に無媒介につながったとする連続性はナンセンスとも言える」と2019年の著書で記している[8]

近藤は、長州藩が薩摩藩の名義で軍艦を購入して(経費は長州藩持ち)、乗組員の大半は「社中」のメンバーとし長州藩が使わないときは薩摩藩が自由に使えるとする「桜島条約」を井上聞多との間で作成し、薩摩藩の了解を得た[9]。これに従い、慶応元年10月に近藤は長崎で軍艦ユニオン号を購入(代金はグラバーからの借金)・受領し[10]下関まで回航して長州藩関係者に披露した[11]。だがここで、ただちにユニオン号を長州藩の用船として使いたいとする長州藩と、条約を楯に代金の支払いがない状態では引き渡せないとする近藤が対立する(ユニオン号事件)[11]。別の用件で下関に来た龍馬もこの問題に巻き込まれた[11]。最終的に、長州藩に有利な新条約を結びなおすことで12月に紛争は落着した[12]。町田明広は、この紛争において近藤個人だけではなく「社中」メンバーが結束して長州藩の主張に反対したのではないかとし[12]、「社中の成立は、あくまでもユニオン号の帰属をめぐる中で偶然になされた」としている[8]。翌慶応2年(1866年)1月、近藤長次郎は自害するが理由は諸説ありはっきりしていない[13]

慶応2年(1866年)5月に鹿児島に入港したユニオン号を譲渡先の長州藩に届けることになり、ここに坂本龍馬が船長として乗り組み、6月4日に出港、14日に下関に到着する[14]。すでに第二次幕長戦争(第二次長州征伐)が開戦しており、長州藩の「乙丑丸」となったユニオン号は、17日に高杉晋作率いる長州艦隊に協力して門司攻撃に参加し長州の勝利に大きく貢献する[14]。このユニオン号運搬を境に坂本龍馬は「土佐脱藩浪士グループを含む旧勝門人グループや旧幕府水夫」らの統率に乗り出して「龍馬社中」と呼べる存在となり、これが「海援隊」につながったと町田明広は主張している[15]。薩長盟約の成立後には薩摩藩側が当初「社中」メンバーに求めた海軍の育成支援の必要性は薄れ(藩自体がそれらの事業に乗り出したため)、これが海運業や開拓といった機能を社中→海援隊が担うようになる契機となったとしている[15]。前記した、薩摩藩から「社中」のメンバー(龍馬ら7名)に一人3両2分の給金が出るようになったのはこの年の10月からである[15]

海援隊

慶応3年(1867年)4月には坂本龍馬の脱藩が許されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関として「海援隊」と改称される。海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立しており、脱藩浪人、軽格の武士、庄屋、町民と様々な階層を受け入れ「海援隊約規」には「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志のある者、この隊に入る」「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」とあり、射利つまり利益の追求が堂々と掲げられていた。会社と海軍を兼ねた組織であり、航海術や政治学、語学などを学ぶ学校でもあった。

いろは丸沈没事件においては、紀州藩賠償金を請求する。また慶応3年7月に中岡慎太郎が陸援隊を組織した。

倒幕運動に奔走するが大政奉還、内戦回避の龍馬と薩摩・長州の武力倒幕では意見が相違した。

同年11月15日12月10日)、龍馬が京都の近江屋で陸援隊隊長の中岡とともに暗殺されると、求心力を失い分裂して戊辰戦争が始まり、長岡謙吉らの一派は天領である讃岐国小豆島などを占領、菅野覚兵衛らも佐々木高行とともに長崎奉行所を占領し、また小豆島も治めた。長岡兼吉が慶応4年4月土佐藩より海援隊長に任命されたが、同年閏4月27日6月17日)には藩命により解散される。土佐藩士の後藤象二郎は海援隊を土佐商会として、岩崎弥太郎九十九商会三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させる。

龍馬は蝦夷地北海道)開発事業に着手する計画を持っていたといわれ、のちに親族の坂本直寛が龍馬の遺志を継ぎ明治時代に北海道空知管内浦臼町に入植している。


注釈

  1. ^ 一坂太郎によると、この時期の「亀山社中」を中心になって運営していたのは近藤や高松であり、龍馬は姉・乙女に宛てた慶応元年9月9日付の手紙で、二十人ばかりの同志を連れて長崎の方で「稽古方つかまつり候」と記す程度で、運営の内実も掌握していなかったのではないかという[5]
  2. ^ a b 亀山社中が海援隊と変わる以前に死亡しているため、厳密には海援隊の隊士ではない。

出典

  1. ^ 【総合商社の歴史】坂本龍馬から始まった?就活に役立つ総合商社の歴史を解説”. unistyle (2021年2月25日). 2021年9月14日閲覧。
  2. ^ a b 亀山社中とは - 長崎市亀山社中記念館
  3. ^ a b c 一坂太郎 2013, pp. 171–172.
  4. ^ 町田明広 2019, p. 146.
  5. ^ a b 一坂太郎 2013, pp. 176–178.
  6. ^ “龍馬と亀山社中、関係薄い? 船中八策は虚構の可能性”. 朝日新聞. (2018年2月26日). https://www.asahi.com/articles/ASL2P4SDXL2PULZU00K.html 2021年11月29日閲覧。 
  7. ^ a b 一坂太郎 2013, pp. 179–181.
  8. ^ a b 町田明広 2019, pp. 147–148.
  9. ^ 町田明広 2019, pp. 150–151.
  10. ^ 町田明広 2019, pp. 152–153.
  11. ^ a b c 町田明広 2019, pp. 156–158.
  12. ^ a b 町田明広 2019, pp. 159–161.
  13. ^ 町田明広 2019, pp. 162–165.
  14. ^ a b 町田明広 2019, pp. 201–202.
  15. ^ a b c 町田明広 2019, pp. 206–208.






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