江古田原・沼袋の戦い
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背景
文明8年(1476年)、関東管領・山内上杉顕定の有力家臣・長尾景春が、古河公方と結んで謀反を起こし、明くる文明9年正月(1477年の1月か2月[* 1])に顕定および扇谷上杉定正が守る五十子の陣(現・埼玉県本庄市五十子)を急襲すると、顕定・定正は大敗を喫して敗走した。(長尾景春の乱)
景仲・景信の2代にわたって関東管領家の家宰職を務めた景春の白井長尾家は、関東で大きな勢力を有し、景春の挙兵に小磯城(現・神奈川県大磯町に所在)の越後五郎四郎、小沢城(現・神奈川県愛甲郡愛川町に所在)の金子掃部助、溝呂木城(現・神奈川県厚木市に所在)の溝呂木正重、小机城(現・神奈川県横浜市港北区に所在)の矢野兵庫助など、多くの国人・地侍がこれに呼応した。
南武蔵の名族・豊島氏も景春に呼応して上杉氏に反旗を翻した。
豊島氏
豊島氏は坂東八平氏の秩父氏の一族で平安時代に源氏の家人となり、前九年の役、保元の乱にも参陣した。源頼朝が挙兵するとこれに従い、鎌倉幕府の有力御家人となった。豊島氏は武蔵国内に練馬氏、板橋氏、平塚氏、小具氏など多くの庶流を配して室町時代になっても大きな力を有していた。「足利武鑑」によれば、その所領は豊嶋、足立、新座、多東の四郡2300余町歩、5万7500石に上ったと伝えられる。この時代、豊島氏は石神井城(東京都練馬区に所在)を居城とし、当主は勘解由左衛門尉泰経であった。
古河公方足利成氏と関東管領上杉氏との享徳3年(1453年)以来の長期に渡る戦乱である享徳の乱では豊島氏は上杉氏に味方していたが、この乱を通じて武蔵国で大きく勢力を伸ばし岩槻城(現・埼玉県さいたま市に所在)、河越城(現・埼玉県川越市に所在)、江戸城(現・東京都千代田区に所在)を築いた扇谷上杉氏家宰の太田道真、道灌父子との対立が豊島氏が景春に呼応した原因とされている。ことに豊島氏の領域近辺に江戸城を築いたことは豊島氏の権益を脅かしたであろうと考えられている。
また、関東管領家を補佐する山内家家宰職を務めた白井長尾家との政治的な結びつきを蜂起に至った理由とする説もある(黒田基樹の論考による)。
合戦の経過
豊島泰経は石神井城、その弟の泰明は練馬城(現・東京都練馬区に所在)で挙兵し、太田道灌の居城江戸城と河越城を繋ぐ道(江戸河越通路)を遮断した。 文明9年3月14日(1477年4月27日)、道灌は石神井城を攻略を画策するが、来援の相模勢が多摩川の増水のため渡河できず断念。直ちに矛先を転じて、相模国の景春方掃討にかかった。道灌は相模勢と合流して、同月18日(5月1日)、溝呂木城を攻め、溝呂木正重は城に火を放って逃亡。小磯城の越後五郎四郎は降伏した。
続いて、小沢城の攻略にかかるが、守りが堅く容易に落ちない。そのため、道灌は河越城に甥の資忠と、上田上野介を、江戸城には上杉朝昌(道灌の主君上杉定正の弟)、三浦高救(定正の兄)、吉良成高、大森実頼、千葉自胤を入れて武蔵の守りを固めさせた。景春方も後詰に動き吉里宮内、実相寺らが小山田要害(東京都町田市)を攻め落として牽制。
同年4月(5月中旬[* 2])、小机城の矢野兵庫助が河越城を衝かんと出撃。同月10日(5月22日)に太田資忠・上田上野介と勝原(すぐろはら。現・埼玉県坂戸市に所在)で合戦となり、矢野兵庫助は重傷を負って撤退した。
同年4月13日(1477年5月25日)、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄・泰経(ただし「泰経」「泰明」の名に関しては、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)に連絡を取り全軍で出撃、道灌もこれを引き返してこれを迎え撃ったため、両者は江古田原(※『鎌倉大草紙』では「江古田原沼袋」[2])で合戦となった。なお、この時道灌は氷川神社(東京都中野区)に本陣を置いたとされる。戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死に(『鎌倉大草紙』では「板橋氏・赤塚氏以下150名が戦死」[2])し、生き残った泰経と他の兵は石神井城へと敗走することになった。この戦いについては、「道灌があらかじめ江古田原付近に伏兵を潜ませた上で、少数で挑発行為を行い、豊島方を平場におびき出した」ものとする説が有力である(葛城明彦・伊禮正雄・八巻孝夫、齋藤秀夫その他)。なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持により「練馬城」とするのが新たな通説となっている。
有名な道灌の足軽軍法により、一騎討ちの騎馬武者に軽快な足軽が集団で攻めかかったことが勝因であったと解説されることがあるが、実のところ道灌の足軽軍法は江戸時代の『太田家記』に名称が記されているだけで実態は不明である。
その後泰経は石神井城に逃げ込み、明くる4月14日(5月26日)、道灌は愛宕山(旧地名・城山、東京都練馬区上石神井三丁目=現・早稲田高等学院付近)に陣を敷いてこれと対峙した。同月18日(5月30日)、泰経は城を出て道灌と会見し、降参を申し出た。城の破却が当時の降伏の作法であったが、泰経がこれを実行しなかったため、偽りの降参とみなした道灌は同月21日(※28日説もある。21日での換算:6月2日、28日での換算:6月9日)に攻撃を再開、石神井城の外城を攻め落とした。これにより抵抗を諦めた泰経は、その夜闇に紛れて逃亡した。
石神井城を陥落させ、河越城との連絡線を回復して行動の自由を得た道灌は主君顕定、定正と合流して北武蔵、上野を転戦して景春を封じ込めることに成功。文明10年正月(1478年2月頃[* 3])に入って、古河公方が和議を打診してきた。
この和議を妨害するかのように、同月、泰経が平塚城に拠って再挙する。しかし、25日(2月27日)に再び道灌がそこへ攻撃に向かったため、泰経はまたしても戦わずして足立方面に逃亡した。泰経のその後の消息は不明となっており、これにより名族・豊島氏の本宗家は滅亡した。なお、以前の通説では「泰経は丸子城(現・神奈川県川崎市に所在)から更に小机城(現・神奈川県横浜市に所在)へと落ち延びた」とされていたが、現在は伊禮正雄・葛城明彦らによってこれはほぼ否定されている。伊禮・葛城は「『太田道灌状』では『豊島氏が足立より遥かに北に逃げたため追撃を諦め、その夜、江戸城に戻った。翌朝丸子城を攻めに行ったところ、敵は小机城に逃げた』とされているだけで、これが豊島氏であるとはどこにも記されていない。足立より北に逃げた豊島氏が翌朝川崎に現れるはずもなく、道灌が翌朝までにその逃亡先を突き止めているということも理論上有り得ない」「『鎌倉大草紙』はこの『敵』を豊島氏としているが、『大草紙』は『道灌状』を下敷きに書かれたもので、これには作者の誤った解釈が含まれていると考えられる」としている。
注釈
出典
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