概型
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歴史と動機
19世紀後半に生まれた[1]代数幾何学のイタリア学派は、代数幾何学の研究に代数多様体の「生成点」という概念を使っていた。生成点とは、特別な性質を持たない点で、この点に対して証明されたことは例外的な点を除きすべての点に対して成り立つという性質があると説明されている[2]。
1926年、ファン・デル・ヴェルデンは明確な代数的定義を生成点に与える[2][3]。この論文では、体 k の有限生成拡大体 k(ξ1, ...,ξn) があったとして、多項式環 k[X1, ...,Xn] の不定元 Xi を ξi に送る環準同型の核を 𝔭 とするとき、(ξ1, ...,ξn) を素イデアル 𝔭 の generic zero と呼んでいる。そして代数多様体の部分代数多様体に対応する素イデアルの generic zero は幾何学における部分代数多様体の生成点と同じ意味だと書いている。通常の点も部分代数多様体なので対応する素イデアルがある。この観点からは素イデアル全体の集合を考えることは自然なことである。ファン・デル・ヴェルデンのこの研究はエミー・ネーターの研究にヒントを得たものだった。ネーターも、公表はしていなかったが同じアイデアに到達していた。
第二次世界大戦が始まる前、ネーターのassociateであったヴォルフガング・クルルはこの考えに基づきパリで代数幾何学の講義を行った[2]。その講義は任意の可換環の全ての素イデアルを点として扱うもので、ザリスキー位相も使っていた。しかしクルルは聴衆の専門家達に笑われてしまい、このアイデアを放棄してしまった。
1944年、オスカー・ザリスキーは、双有理幾何学の必要のために、抽象的ザリスキー・リーマン空間を代数多様体の函数体から定義した。この定義は、(ブローアップの下での)通常の多様体の帰納極限のように、構成はロケール理論 (locale theory) の類似で、点としては付値環を使った[要出典][注釈 1]。
1946年、アンドレ・ヴェイユは『代数幾何学の基礎』(Foundations of Algebraic Geometry)と題した著作を発表する[4]。本の序文には、代数幾何学には適切な基礎理論が無いこと、この本の目的は交差理論を確立すること、ザリスキーの影響を受けていることなどが書かれている[5]。ヴェイユは、有限体上の一変数代数関数体に対するリーマン仮説を種数が2以上の場合に証明するために、任意の体上の任意次元の代数多様体に対して使える交差理論を必要としていた[6]。
この本では、生成点は各座標の値が万有体[7](universal domain)と呼ばれる非常に大きな代数的閉体の元であるような点として定義されている[8]。
また、この本では抽象多様体がアフィン代数多様体を貼り合わせることで定義されている。アフィン代数多様体を貼り合わせて代数幾何学の研究対象とする空間を定義するアイデアは、セールによる代数多様体の定義や現代のスキームの定義に受け継がれている。ヴェイユが抽象代数多様体を定義するまでは代数多様体とは射影空間やアフィン空間の部分集合となるようなものだけが考えられていた[9]。ヴェイユがこのように定義された抽象多様体を必要とした理由の一つは、正標数でのヤコビ多様体が非特異射影モデルを持つかどうか不明であるためだった[10]。
1947年時点では、次の5つの流儀が代数幾何学にはあった[11]。
- 古典的なイタリア学派の流儀
- ファン・デル・ヴェルデンの流儀
- ヴェイユの『代数幾何学の基礎』の流儀
- ザリスキーの付値論を使う流儀
- 一変数代数関数体を整数論的に扱う流儀
1は厳密性に欠け、2は3に吸収され、5は次元に関する制約があるので、残るは3と4であった。
1949年、ヴェイユは有限体上の一変数代数関数体に対するリーマン仮説を高次元化した予想を、関連する予想とともに提唱した[12]。これはのちにヴェイユ予想と呼ばれることになる数論の予想である。この中でヴェイユは有限体上の代数多様体の有理点の個数から定まると予想される多項式の次数を「ベッチ数」と示唆的な名前で呼んでいる[13]。
1950年、ヴェイユは国際数学者会議で「整数環上の幾何学」(geometry over integers)について言及する。この幾何学に向けた第一歩は数年後にクロード・シュヴァレーと永田雅宜によって踏み出される[14][注釈 2]。
1955年、ジャン=ピエール・セールは「代数的連接層」(Faisceaux algébriques cohérents)と題した論文で代数多様体の新たな定義を与える[15]。一般にFACと呼ばれるこの論文の中でセールは(アンリ・カルタンの[16])局所環付き空間という概念を用いて任意標数の代数閉体上の代数多様体を定義する。局所環付き空間を使うというアイデアはスキーム論に受け継がれる。序文によれば、この論文の目的はコホモロジー論の抽象代数幾何学における有用性を示すことにあった[17]。ヴェイユ予想への言及も見られる[18]。この頃には、セールとグロタンディークはヴェイユ予想の証明に使えるコホモロジー論が存在することを、どのように定義すればよいかまでは分からないものの、確信していた[19]。
同年、シュヴァレーはカルタン・セミナーで「スキーム」(Les schémas)と題した発表をする[20]。スキームの言葉はここに現れている。 この発表では、K を体(代数閉体とは仮定していない)、L を K 上有限生成な体として、包含関係 K ⊂ A ⊂ L にある環 A に対してその素イデアルによる局所化すべての集合をアフィン・スキームと呼んでいる[21]。この集合は A の素イデアルすべての集合と自然な全単射があるので、シュヴァレーは体上の整域の(現代の意味での)アフィン・スキームを考察していたといえる。
1956年、永田はデデキント整域上の代数幾何学の基礎について論文を発表する[22]。この論文の導入部で永田はシュヴァレーに対して謝辞を述べている。シュヴァレーは1954年1月に京都大学で講義を行い、永田はここから多くのアイデアを得たという。またこの論文の執筆に対しても多くの助言があったという。
同年[23]、ピエール・カルティエはシュヴァレー・セミナーで「代数多様体の定義」(Définition des variétés algébriques)と題した発表をする。この発表では、体 k 上の有限生成代数 A と代数閉体 K に対して A から K への k 上の準同型全体を ΩA と書いて A のスペクトルと呼んでいる[24]。スペクトルという言葉はここに現れている。K が k 上の代数的閉包ならこれ(をガロア群の作用で割ったもの)は極大イデアル全体の集合であり、K の k 上の超越次数が無限ならばこれ(をガロア群[注釈 3] の作用で割ったもの)は素イデアル全体の集合である[25]。
発表の冒頭でカルティエは「次の発表でシュヴァレー・永田のスキーム理論と関係付ける[訳語疑問点]」と言い、次に「代数多様体のスキーム」と題した発表をしている[26]。この発表の中でカルティエは、シュヴァレーのアフィン・スキームの定義において L に対する条件を体から半単純代数に弱めたものをアフィン・スキームと定義し、それを S(A) という記号で書いている[27]。カルティエが定義したアフィン・スキームも、やはり体上の幾何学的対象である。
同年、セールに送った手紙の中でグロタンディークは代数的整数環のアフィン・スペクトルについて言及している[28]。
1958年、グロタンディークは国際数学者会議で抽象代数多様体のコホモロジー論について講演する(論文の発表は1960年)[29]。この中でグロタンディークは、永田とシュヴァレーの研究に言及したのち[注釈 4]、「正しい定義の指針」(the principle of the right definition)はセールのFACにあると言い、任意の可換環に対するスキームの定義を現在と同じ形で述べた[30]。
現在と同じスキームの定義に誰がどのようにして至ったかについては、様々な逸話がある。グロタンディークとデュドネは、セールが代数多様体のコホモロジー論を任意の可換環に対して書き起こすことは容易であると指摘した、と言っている[31]。カルティエは、マルティノー[注釈 5]がセールに彼の理論は極大イデアルを素イデアルに置き換えても成り立つことを指摘し、そしてカルティエが現在のスキームの定義と全く同じものを提案した、と言っている[31]。セールは、スキームを発明したものはいない[31]、完全に一般的な設定で考えてもうまくいくと考えたところにグロタンディークの独創性がある、と言っている[32]。これらを踏まえた上で、スキームの定義は空気の中にあった、と McLarty (2003, p. 14) は総括している。
スキーム理論に対する当時の数学者の反応は様々であった。
- セールは、スキーム理論を不要な仮定を代数幾何学から取り除くものでありディオファントス問題や変形理論の研究に必要な一般化である、と評価した[33]。
- ザリスキーはスキーム理論を歓迎し、スキームを用いて代数幾何学を構築するグロタンディークの新しいやり方に深く感動した[34]。
現在では、スキーム理論は代数幾何学の基礎理論として最適なものであることが明らかになっている[35]。
注釈
- ^ Schappacher (2007, p. 10) によれば、ザリスキーは1938年から自分流の代数幾何学の基礎を考え始めている。
- ^ ただし、Chevalley (1955) や Nagata (1956) でこの講演が参考文献としてあげられているわけではない。また Chevalley (1955) で考察されているのは体上の代数幾何学だけである。
- ^ K の k 上の自己同型群の意と思われる。
- ^ グロタンディークは永田の論文を知っていた。Dieudonné (1989, p. 305) 参照。
- ^ アンドレ・マルティノーのことと思われる。
出典
- ^ Schappacher 2007, p. 248.
- ^ a b c McLarty 2003, p. 13.
- ^ Schappacher 2007, pp. 252–253.
- ^ Weil 1962.
- ^ Weil 1962, p. vii.
- ^ Serre, Jean-Pierre (1999). “André Weil. 6 May 1906 — 6 August 1998”. Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society 45: 524. doi:10.1098/rsbm.1999.0034 .
- ^ 新訂版 数学用語 英和辞典, p. 90, - Google ブックス
- ^ Weil 1962, p. 68.
- ^ Dieudonné 1985, p. 65.
- ^ Weil 1962, p. xi.
- ^ Schappacher 2007, p. 276.
- ^ Weil 1949.
- ^ Weil 1949, p. 507.
- ^ The Grothendieck Festschrift, Volume I, p. 7, - Google ブックス
- ^ Serre 1955.
- ^ Dieudonné 1985, p. 102.
- ^ Serre 1955, p. 197.
- ^ Serre 1955, p. 233.
- ^ McLarty 2016, pp. 259–260.
- ^ Chevalley 1955.
- ^ Chevalley 1955, p. 3.
- ^ Nagata 1956.
- ^ Cartier 1956a, p. 1.
- ^ Cartier 1956a, p. 9.
- ^ McLarty 2003, p. 16.
- ^ Cartier 1956b.
- ^ Cartier 1956b, p. 18.
- ^ Grothendieck-Serre Correspondence, p. 25, - Google ブックス
- ^ Grothendieck 1960.
- ^ Grothendieck 1960, p. 106.
- ^ a b c McLarty 2003, p. 14.
- ^ McLarty 2003, p. 17.
- ^ Serre, Jean-Pierre (1989) (PDF), Rapport au comité Fields sur les travaux de A. Grothendieck (1965), p. 4
- ^ Mumford, David (2009) (PDF), My Introduction to Schemes and Functors, p. 4
- ^ Dieudonné 1989, p. 306.
- ^ Kleiman, Misconceptions about KX, L'Enseignement Mathematique.
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