日系アメリカ人の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/08 23:29 UTC 版)
日系アメリカ人の歴史(にっけいアメリカじんのれきし)では、主に明治維新から現代にかけて、日本からアメリカ合衆国に移住した、在米日本人及びその子孫である日系アメリカ人(ハワイにおける日本人移民を含める)の歴史について記述する。
注釈
- ^ 1921年には「北米日本人会」と改称。1931年には、シアトル日本人商工会議所と合併し「北米日本人会商工会議所」に再編された。
- ^ ただ、これ以降も1世達は、進んで2世である子供達の日本国籍を届け出た為、2世の大半は日米二重国籍のままだった。2世による日本国籍の放棄が進むのは、日米関係の悪化に伴い、反日団体が2世による二重国籍問題を、攻撃の槍玉に挙げるようになった1939年以降である[11]。
- ^ 永井荷風は、横浜正金銀行(現:三菱UFJ銀行)のニューヨーク駐在員だった頃、シアトルへ出張した際に目の当たりにした同地の様子を、『あめりか物語』において「何から何まで日本の町を見ると少しも変わった事のないありさま」であったと描写している[15]。
- ^ 無論、異人種間の結婚が禁止されていないワシントン州やハワイ準州などでは、日系人が非日系人と結婚したようなケースもあった。そうした背景に基づくエピソードとして、ワシントン州の場合、特に友会徒やモルモン教徒である非日系人と、交際もしくは結婚している子供・孫を持つ人物が、収容所に抑留されている間に、財産管理をしてもらう事に成功した事例も、少数ながら存在した[17]。また、映画『愛と哀しみの旅路』でも、異人種間の結婚が禁じられているロサンゼルスにおいて、恋愛関係になった白人男性と日系人女性が、シアトルへ駆け落ちをする描写がある。ハワイ準州の場合、後述する酒巻和男帝国海軍少尉の第一発見者となった、ハワイ準州防衛隊第298歩兵連隊G中隊のデビッド・アクイ伍長は、日系人とハワイ先住民の混血であった[18]。日系人を中心に編成された第100歩兵大隊にも、“カホロクラ”・“カレイアロハ”・“ケアロハ”の姓を持ったり、日本姓でもハワイ先住民との混血である隊員が、約20名在籍したほか、華僑・フィリピン人・ポルトガル人との混血である隊員もいた[19]。
- ^ 同地の元住民により構成された“ターミナルアイランダーズ”の元会長。2014年には、日本国政府から旭日双光章を授与されている。
- ^ ハワイ大学在学中に、予備役将校訓練課程(ROTC)を履修した事に伴い、当時のアメリカにおける2世としては、初めて予備役陸軍歩兵少尉に任命された1人となった。1931年の卒業と同時に、USARPACに入隊。ハワイ準州内における、日系コミュニティ及び日本総領事館の活動を監視すべく、総領事館で働く日系人から、情報提供者を確保するなどの、対諜報活動に従事した。1957年6月30日に、中佐の階級で退役。没後の1995年に、アメリカ軍情報部殿堂入りを果たした[46]。
- ^ 所属部隊も、大統領部隊感状を授与されている。
- ^ 両親は、ワシントン州タコマにおいて、初めて日本人男性と白人女性で結婚した夫婦だった[53]。
- ^ インディアナ州エバンズビル出身のジェームズ・オグラ・ジュニアなる人物である事以外の詳細は不明。
- ^ コロラド州ロッキー・フォードの出身で、1941年にコロラド鉱山大学を卒業している[54]。
- ^ 陸軍軍人としての最終階級。1948年にアメリカ空軍特別捜査局へ転属し、1975年に空軍中佐の階級で退役している。
- ^ 例えば、零戦の開発に携わっていた三菱重工業には、マサチューセッツ工科大学の卒業生を含めた、6名の2世が在籍していた。
- ^ 3~5,000人程と推計されている[60]。
- ^ かまやつひろしの父にあたる。
- ^ 森山良子の父にあたる。
- ^ 広島県は、全国1位の移民送出県である。
- ^ 文化学院の校舎を接収した設置された施設である。
- ^ 建設に際しては、竹宮が民事部長として、地元住民や自治体との交渉にあたった、という背景がある[65]。
- ^ この中には、前述した在日2世も、多く含まれていた。しかし、日本人待遇だった事から、給料は一般的な2世の1/7程度で、GHQ専用の車両・宿舎・食堂などの利用も禁じられるなど、職員ヒエラルキーでは、最下層の扱いだった[67]。
- ^ 1982年に、現在の連邦請求裁判所に改編される。
- ^ 現在のアメリカ合衆国において、同日は『追憶の日』と称され、日系人の強制収容に関連するイベントが、各地で催されている[75]。
- ^ 外務省の資料では、153人とされている。
- ^ 詳細な記録がないため、正確な人数は不明。
- ^ 発表は1872年。多少の誤差を含む。
- ^ しらやまだに きたろう。英語では“Kataro”と誤表記されたまま後年に伝わる。
- ^ 明確な記録は残されていないが、創刊号が発行されたのは、同年2月だったという説が、現在では有力視されている。
- ^ 石坂昌孝の長男にあたる。
- ^ 林きむ子の夫にあたる。
- ^ 官約移民の出身県の割合としては、38.1%が広島、35.9%が山口、14.6%が熊本、7.5%が福岡といった具合に、全体の96.1%が4県で占められていた。正確な統計は無いものの、官約移民の6割以上が、出稼ぎ目標を達成し、ハワイでの蓄えを携えて帰国したと推測されている[90]。
- ^ 設立にあたっての趣意書には、
と記されている。同会は、1911年度から在米日本人会代表者会へ代表者を送り、羅府日本人会を中心に、漸く激化してきた加州排日土地法対策、その他諸般の問題処理に当たった。1914年4月9日、南加各地の日本人会代表者が集まり、排日土地法など時局多端に鑑み、従来の単なる連絡団体にすぎなかった『南加連合日本人会』を、独立団体に改組を決定… - ^ 最終的に、日本からハワイへの移住者数は、先に渡った家族に呼び寄せられた62,277人を含めて、199,933人にまで及んだ。その内、約3割は本土へ渡り、2割弱は帰国を選択した。
- ^ 因みに、後述する1935年の『ナイ・リー法』成立に際しては、再帰化の申請は行わなかった。
- ^ 松平忠厚の次男、徳川家康及び伊達政宗の9世孫にあたる。
- ^ 1997年9月30日に、バンク・オブ・ハワイにより吸収合併される[97]。
- ^ 1948年に準州下院、1952年に準州上院の議員に、それぞれ当選している。
- ^ a b c d e f g h i j k l 元MISの一員である。
- ^ 出馬した時点では、日米両国籍を保持していたが、選挙の3日前に、日本国籍を放棄した。
- ^ 日本国籍者以外にも、日系市民22名・ドイツ国籍者74名・ドイツ系市民19名・イタリア国籍者11名・イタリア系市民2名が、身柄を拘束された。
- ^ 1928年から3年間に亘って、東京の駐日アメリカ大使館付海軍武官として駐在し、日本語と日本文化を学ぶ。1936年7月からは、第14管区の情報将校補佐として、1年間ホノルルに駐在した経験などから、海軍きっての日本・日系コミュニティ通として知られるようになる。1940年7月に、第11管区の情報将校補佐としてロサンゼルスに赴任すると、西海岸の日系人によるアメリカへの忠誠心の度合いを調査する任務を受命。JACLメンバーの間に、情報提供者のネットワークを構築し、スパイの疑いがある者の情報収集に努めた。そのうえで、ロス市警やFBIとも連携し、1941年6月に在ロサンゼルス日本国総領事館へ深夜の抜き打ち捜査を実施。結果として、日本政府によるスパイの名簿を入手する事に成功し、立花止の逮捕に至る事となった[104][105]。
- ^ タヤマ以外のJACL幹部も、当時の会長だった城戸が、ポストン収容所において1942年9月と1943年1月28日の2度に亘って、1世のジョン・ヤマザキ(山崎節)と第4代会長を務めたトーマス・ヤタベ(谷田部保)が、ジェローム収容所において1943年3月6日に、各々暴行を受ける事態に見舞われている。
- ^ 帰国後のワカヤマは、1948年に福岡市へ移り、アメリカ映画の配給会社の九州支社長となった。その後は、62歳で定年退職するまで、福岡学芸大学(現:福岡教育大学)で教鞭を執った。リタイア後は、3人の息子達をアメリカへ送った。91歳の誕生日には、ノーマン・ミネタ連邦下院議員から、1988年6月17日に合衆国議会議事堂で掲げられた星条旗を送られた。1993年12月21日には、退役軍人省より第一次世界大戦75周年記念メダルを授与されている。
- ^ トゥーリーレイクに「No-No組」が多かった理由として、WRAは「同収容所は、他所と比較して、独身の農業労働者が多かった。彼等は概して貧しく、成功の経験が無い事から、アメリカへの反感と日本への帰属意識を持つようになった」と分析している[108]。
- ^ 使用されたのは、第一次と同じグリップスホルム号。
- ^ 終戦後に日本へ帰国した「No-No組」は、総じて荒廃した祖国を目の当たりにして、愕然とする事となった。1946年2月4日付の『羅府新報』には、「鶴湖帰国者の叫び」と題して、帰国者がトゥーリーレイク収容所に残る兄夫婦に送った、
と綴られた手紙が掲載された[110]。鶴嶺湖で強硬派として鼻息の荒かった連中も、日本の現状を見て、ガッカリしております。帰国請願により、祖国日本の土を踏んだ帰国者は、異口同音に“アメリカに居住していれば良かった”と本音を吐いております。何卒、当地の皆様に呉々もお伝え下さって、再考を促すように、お計らい下さい。 - ^ トゥーリーレイク収容所に送られてきた「No-No組」は、筋金入りの親日派や、アメリカに不忠誠なトラブルメーカーばかりだった訳ではなかった。自らの祖国ないし長年暮らした第2の祖国から、財産の没収・収容所への抑留といった仕打ちを受けた事への怒り・絶望から、日本寄りになった、ただ「忠誠登録」に“No-No”と回答した親に付き従っただけだった、など様々な背景があった[111]。
- ^ ここで言う1世とは、幼少期に両親とアメリカへ移住し、同国で教育を受けた事で、帰米2世とは正反対に、日本国籍を持ちながら英語が第一言語となった、現在で言うところの、タレントのすみれのような「1.5世」と呼称される者達が該当する。
- ^ 東京商科大学(現:一橋大学)卒業。海軍飛行科予備学生第14期。元山海軍航空隊所属。
- ^ 階級はいずれも少尉。
- ^ 第二次世界大戦中のアメリカにおいて、一貫して日系人の強制収容に反対していた数少ない政治家だった、ラルフ・ローレンス・カーが州知事を務めていた事もあり、多くの日系人が保護を求めて、同州へ流入したという背景がある[114]。
- ^ 1952年に、準州上院議員に当選している。
- ^ 当時はNBAではなくBAA。
- ^ 当時はNFLではなくAAFC。
- ^ 何度かの改称を経て、1980年に現在の名称である「南加日系商工会議所」となる。
- ^ 同戦闘に従事した2世は、兵士として最前線に赴いた者と、GHQにおける後方支援に携わった者を合わせて、約5,000人にも及んだ。休戦までに256名が戦死し、その内の17名は、第二次世界大戦にも従軍した者だった[119]。
- ^ 同回では、『戦場にかける橋』に出演した早川雪洲も、助演男優賞にノミネートされたが、こちらは受賞には至らなかった。
- ^ 2007年3月29日には、国定歴史建造物にも指定された。
- ^ a b c 3ヶ国とも、大日本帝国の委任統治地域としての南洋諸島から、アメリカ合衆国大統領を施政権者とする太平洋諸島信託統治領に移行した歴史を持つ地域であり、初代大統領は日系人である。
- ^ 主人公・天羽賢治のモデルは、前述したデイヴィッド・イタミとハリー・K・フクハラであるとされている。
- ^ 他にも、同校における、MISLSの関係者に纏わる建物としては、校長だったジョン・アイソの名を冠した図書館、教官だった宗方豊の名を冠したホールが、それぞれ存在している。
- ^ 野口米次郎の長男にあたる。
- ^ 対象には含まれているものの、所在が確認できなかった為、支払いが叶わなかった者が、4,000人以上いた。
- ^ 2007年を最後に、実施されていない。
- ^ 同地は、1975年4月8日にボエジャーズ国立公園の一部となった。
- ^ ウォーレス・タシマの長男にあたる。
- ^ 福岡市とオークランド市は、1962年10月13日に姉妹都市提携を結んでいる。
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- 1 日系アメリカ人の歴史とは
- 2 日系アメリカ人の歴史の概要
- 3 「日本人会」の取り組み
- 4 「出稼ぎ」から「定住」へのシフト
- 5 日本語教育への取り組み
- 6 第一次産業への関わり
- 7 強制収容の実施
- 8 第二次世界大戦への従軍
- 9 日本へ渡った2世達
- 10 日米関係の好転と移民受け入れの再開
- 11 リドレス運動の展開
- 12 「日系アメリカ人」の多様化
- 13 年表(江戸時代)[87]
- 14 年表(明治時代)[87][89]
- 15 年表(大正時代)[93][94]
- 16 年表(戦前昭和期)[93][95]
- 17 年表(第二次世界大戦期)[102][103]
- 18 年表(連合国軍占領期)[113]
- 19 年表(戦後昭和期)[117][118]
- 20 年表(平成以降)[124][125]
- 21 脚注
- 日系アメリカ人の歴史のページへのリンク