斯波義淳 官歴

斯波義淳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/18 01:27 UTC 版)

官歴

※日付=旧暦

  • 応永14年(1407年):元服。従五位下治部大輔に任官。
  • 応永16年(1409年):8月、管領に任ぜられる。
  • 応永17年(1410年):6月、管領を辞する。
  • 応永25年(1418年):8月、武衛家家督を継承。越前・尾張・遠江守護に任ぜられる。左兵衛佐に昇る。従四位下に昇叙か。
  • 永享元年(1429年):8月24日、管領に再任。
  • 永享4年(1432年):10月10日、管領を辞する。
  • 永享4年(1432年):10月11日、海東郡(尾張)守護を兼任する。

偏諱を受けた人物

参考文献

  • 福井県『福井県史・中世』通史編2(福井県、1994)
  • 愛知県『愛知県史 資料編9 中世2』(愛知県、2004年)
  • 臼井信義『足利義満』(吉川弘文館、1960年)
  • 小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、1980年)
  • 伊藤喜良『足利義持』(吉川弘文館、2008年)
  • 石田晴男『戦争の日本史9「応仁・文明の乱」』(吉川弘文館、2008年)
  • 山田邦明『日本中世の歴史5「室町の平和」』(吉川弘文館、2009年)
  • 吉田賢司『室町幕府軍制の構造と展開』(吉川弘文館、2010年)第二部第一章「管領・諸大名の衆議」
  • 関周一『歴史文化ライブラリー367「朝鮮人のみた中世日本」』(吉川弘文館、2013年)
  • 小国浩寿『動乱の東国史5「鎌倉府と室町幕府」』(吉川弘文館、2013年)
  • 今谷明『室町幕府解体過程の研究』(岩波書店、1985年)
  • 渡辺世祐『関東中心足利時代之研究』(新人物往来社、1971年)
  • 今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典〔下〕』(新人物往来社、1988年)
  • 松原信之『越前 朝倉一族』(新人物往来社、1996年)
  • 谷口克広『尾張・織田一族』(新人物往来社、2008年)
  • 田中義成『足利時代史』(講談社学術文庫、1979年)
  • 河村昭一「管領斯波義淳の就任・上表をめぐって」『兵庫教育大学研究紀要』18巻(1998年)
  • 河村昭一「管領斯波義淳の政治活動」『政治経済史学』417・418号(2001年)、木下聡 編『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戎光祥出版、2015年)所収
  • 小泉義博「室町期の斯波氏について」『北陸史学』42号(1993年)、木下聡 編『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戎光祥出版、2015年)所収
  • 『歴史と旅 増刊「守護大名と戦国大名」』(秋田書店、1997年)

注釈

  1. ^ 『教言卿記』応永16年6月7日条に「前管領(義将)還補」という記事が、『執事補任次第』には同年8月10日に義淳の管領就任が記載されていたため、6月7日から8月10日までは祖父の義将が4度目の管領に就き、その後管領職を孫に譲ったと解されてきた。しかし、百瀬今朝雄はこれを実際に任命されたのは義淳であったがまだ判始も済ませていないために職務が行えず、祖父の義将が職務を代行することをなったのを山科教言が「義将の管領復帰」として捉えたのではないか、としている。また、生田本『鎌倉大日記』には義淳の管領就任を「六五(=6月5日)」と書かれており、実際の管領就任は6月5日であった可能性が高いとする[6]。また、百瀬は自身が以前作成した『国史大辞典』第3巻(吉川弘文館)の「管領」項目にある「室町幕府管領(執事)一覧」も修正する必要があると述べている[7]
  2. ^ ただし、『執事補任次第』には「依為幼少、祖父法花寺代孫載判形」と記されており、花押をしたのを祖父の義将であったとする[6]

出典

  1. ^ 『清須合戦記』
  2. ^ 尊卑分脈
  3. ^ 祖父義将、父義重、子義豊も同様に公家の儀式によって元服した(『斯波家譜』)。
  4. ^ 尚この日は義淳と同時に日野義資も元服した(『教言卿記』)。
  5. ^ 武衛家の代々の後継者は将軍の上の字である「」字を偏諱として受ける慣例があった(『満済准后日記』)。
  6. ^ a b 百瀬今朝雄「〈歳十五已前之輩〉と花押」『弘安書札礼の研究』(東京大学出版会、1994年)P271-273.(初出:『早稲田大学蔵資料影印叢書』10号、1986年)。
  7. ^ 「偽文書について」『弘安書札礼の研究』(東京大学出版会、2000年)P277-278.(初出:『立正大学文学部論叢』100号、1998年)
  8. ^ 『大日本史料』第七編之十二。
  9. ^ 義淳は執権の甲斐氏に、甲斐氏はさらにその配下の狩野氏に朝鮮使節の接待役を勤めさせたという(『老松堂日本行録』)。
  10. ^ 『看聞日記』応永28年4月8日条によると仮屋を二棟用意し、風流な破籠(弁当箱)を用いた善美を尽くしたもてなしであったという。
  11. ^ 『看聞日記』応永32年2月28日条によると、この年の元旦に武衛陣の梁上に降下した「将軍」銘の兜を、義淳はひたすら秘し続けたといわれる。その後、義淳の重臣甲斐氏のもとに石清水八幡宮に参籠中の僧侶が霊夢によって太刀を持参したという。これはかつて義淳の曽祖父高経が奉納した太刀であったとされる。
  12. ^ 計会(経済的問題か)により、義淳が離京を計ったためであるという(『満済准后日記』正長元年8月6日条)。
  13. ^ 但し、義淳は管領就任の条件として「永享2年正月12日以降に上表(辞意)する際は満済が将軍へ披露する」としており、当初から管領職を全うする意思は少なかったようである(『満済准后日記』正長2年8月24日条)。
  14. ^ 『斯波家譜』では義淳時代の武衛陣(武衛邸)の様子が記述されている。それによると、寝殿造の屋敷には「唐鳥」が描かれ、障子には紫縁を捺し、南庭には蹴鞠場、塀中門(表屋と母屋の間にある塀に設けた中門)の内の玄関には丸付きの御簾垣を設えた造であったという。
  15. ^ 「室町期の斯波氏について」
  16. ^ 「管領斯波義淳の就任・上表をめぐって」「管領斯波義淳の政治活動」
  17. ^ 「管領斯波義淳の政治活動」


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