慈眼寺 (小千谷市) 慈眼寺 (小千谷市)の概要

慈眼寺 (小千谷市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 14:24 UTC 版)

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慈眼寺

所在地 新潟県小千谷市平成2丁目3-35
山号 船岡山
宗派 真言宗智山派
本尊 聖観世音菩薩
公式サイト 慈眼寺
法人番号 9110005012847
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歴史

寺伝によれば、天武天皇白鳳年間(7世紀末)に薩明大徳が創建したと伝わる。貞観2年(860年)に真雅が創建したという説もある(『年表小千谷』)。

慶応4年(1868年5月2日 (旧暦)には越後国長岡藩家老河井継之助と新政府軍監の岩村精一郎(のちの岩村高俊)が会談したことで知られている。河井は中立和平を訴えたが、決裂し、戊辰戦争の内でも激戦として知られる北越戦争に突入した[1]

境内

境内には、山門、船岡観音堂、慈眼寺本堂、庫裡、小千谷幼稚園などの建物と岩村軍監、河井総督会見談判所(本堂内)、同上記念碑の戊辰史蹟などがある。

岩村河井会見記念碑は、慶応4年5月2日、この寺で両者が会見し談判した史実を記念して、昭和14年(1939年)、当山先代住職船岡芳快の発願によって建てられたものである。

碑文は徳富蘇峰の撰、篆額と書は小千谷市出身の島田博の筆である。

船岡観音

現在は慈眼寺境内に船岡観音があるが、以前は小千谷市西中にあったという。小千谷市西中には今でも観音堂という地名がのこっている。

空海(弘法大師)が旅の途中、村人に頼み庵を結び、しばらく住んでいた。空海は説教・祈祷・看病・堰の造営などをし、夜は仏像を刻んでいた。やがて、三の聖観音像が完成し、空海は村人に、「この観音様を拝み、仏の教えを守れば、皆は極楽往生するだろう。」と言い残して村を去っていったという。

文化財

山門

登録有形文化財

小千谷市指定文化財

  • 岩村・河井会談の処
  • 岩村高俊自伝草稿

慈眼寺を舞台とした作品

交通

信濃川左岸の市街地に立地し、山門は寺町通り(県道49号)に面する。

周辺

関連項目

外部リンク

座標: 北緯37度18分27.1秒 東経138度47分39.6秒 / 北緯37.307528度 東経138.794333度 / 37.307528; 138.794333


  1. ^ 反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか 武田鏡村 東洋経済(2017年10月17日)2017年10月19日閲覧


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