広東省 (中華民国)
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中華民国 広東省 | |
← 1912年 - 1950年 → | |
広東省の位置 | |
簡体字 | 广东 |
繁体字 | 廣東 |
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拼音 | Guǎngdōng |
カタカナ転記 | グアンドン |
国家 | 中華民国 |
行政級別 | 省 |
政府所在地 | 番禺県1912-1925 広州市1925-1949 海南特別行政区海口市1949-1950 |
建置 | 1912年 |
消滅 | 1950年 |
面積 | |
- 総面積 | 218,511 km² |
人口 |
地理
清代の広東省の管轄地域を継承して成立した。1914年(民国3年)、南澳島が移管され管轄面積は218,511平方キロメートルとなった。1949年(民国38年)5月、海南島及び南洋諸島が海南特別行政区として分割されている。
東は福建省、北は江西省、湖南省、西は広西省及びフランス領インドシナに接し、南は瓊州海峡を隔て海南特別行政区に接していた。
歴史
1911年(宣統3年)、辛亥革命が勃発すると11月9日に広東省は独立、広東都督府が設置されその下部に軍政、民政等の8部2処を設置した。1913年(民国2年)には民政長官としての民政長を設置、1914年(民国3年)には民政長を巡按使、1916年7月には省長と改称された。
1925年(民国14年)7月1日、広州国民政府は全国初の省政府として広東省政府を広州に設置、省務会議による省行政の一元管理を行った。同日に公布された『省政府組織法』に基づき委員及び主席を選出している。
1926年(民国15年)11月10日、国民党中央政治会議は広東省政府を広東省政府委員会に改編することを決定、また広州国民政府は同日『修正省政府組織法』により省政府の元に民政、財政等の庁を設置している。1927年(民国16年)の上海クーデター以降、広東省政府は南京国民政府に帰順、同年7月11日には省政府を解体し、常務委員制度を採用している。1936年(民国25年)10月3日、行政督察区が施行されると全省に9区が設置されている。
日中戦争が勃発すると、1938年(民国27年)10月に日本軍が広東省一帯を占領し、中華民国政府は実効支配権を喪失したため、汪兆銘政権による統治が実施された。その後、1945年(民国34年)8月15日、日本の敗戦と汪兆銘政権の崩壊により中華民国による統治が復活し、さらに9月21日にはフランスの租借地であった広州湾租借地が中華民国に返還され、湛江市となった。1949年(民国38年)4月には海南特別行政区が発足したため、海南島、東沙諸島、太平島などの地域が広東省の管轄から離れた。
1949年(民国38年)10月14日、共産党勢力により省会の広州市が「解放」されると、中華民国が実効支配する広東省の地域は万山群島のみとなった。翌1950年(民国39年)5月25日には万山群島戦役が勃発し、8月4日に人民解放軍が全島を制圧したため、中華民国は実効支配権を喪失した。
省会
省会は当初番禺県に設置されたが、1925年(民国36年)以降は広州市に移された。
- 1 広東省 (中華民国)とは
- 2 広東省 (中華民国)の概要
- 3 歴代省長
- 4 関連項目
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