山縣有朋 邸宅・記念館

山縣有朋

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邸宅・記念館

古稀庵から山縣農場へと移築された洋館。現在は山縣有朋記念館となっている
晩年を過ごした古稀庵神奈川県小田原市
愛用の書見台付いす(無鄰菴所蔵)

おもな邸宅と庭

  • 無鄰菴(初代) 長州吉田清水山
    慶応年間(1860年代後半)から明治33年(1900)まで使用[117]
  • 椿山荘 東京・小石川目白台の本邸
    明治10年(1877年)にこの地を購入し造営を開始し、明治11年(1878年)に管制[117]。作庭は岩本勝五郎。隣地に田中光顕の家があり、親密に行き来していた[183]。以後東京の本邸として使用され[117]、大正7年(1918年)に藤田平太郎に譲渡[184]
  • 山縣農場 栃木県・矢板
    明治19年(1886年)、那須に広大な第三種官有地の払下げを受け移住農家を招致して開墾をすすめたもの[185][119][186]。古希庵の伊東忠太設計による木造洋館は大正12年(1923年)、関東大震災被災のあと養嗣子・伊三郎によりこの農場に移築され、現在は財団法人山縣有朋記念館となっている。山県自身はほとんど滞在していない[183]
  • 小淘庵(おゆるぎあん[187][188]大磯別邸
    明治20年(1887年)ごろからの約5,000坪の別邸。足関節炎の治療には山より海岸がいいという橋本綱常の勧めに従ったものだが、伊藤、西園寺、大隈ら有力政治家の別荘が隣接し、政治的交流の場としても機能した[183]。のちに山県はこれを三井家に譲渡して古稀庵を構えた。
  • 無鄰菴(第二)京都別邸
    明治24年(1891年)。旧角倉邸。鴨川と高瀬川の分岐点、二条大橋のたもとに位置していた[189]。敷地の拡張ができなかったため翌年売却[183]
  • 無鄰菴(第三)京都別邸
    明治29年(1896年)完成[190]。建物自体の完成は1895年[183]。数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、レンガ造り2階建て洋館からなる。洋館の設計は新家孝正で明治31年(1898年)に竣工。この洋館2階の間は日露開戦直前には「無鄰菴会議」の舞台ともなった。作庭は七代目小川治兵衛(当時35歳で、山県は初めて起用した)[117]
  • 新々亭(さらさらてい) 東京小石川水道町別邸
    明治40年(1907年)。この庭にも流れと池が配置された。「新々亭」という名は山県の詠じた「さら/\と木がくれつたひゆく水の流れの末に魚のとぶみゆ」という歌にちなんだものである。500坪。山県の死後は貞子夫人邸となる[117]
  • 古希庵(こきあん) 小田原別邸[191]
    山県が明治40年(1907年)、古稀の折りに造営し晩年を過ごした邸宅。平屋建の和風木造の母屋、木造2階建ての洋館(伊東忠太設計、1909年竣工)、レンガ造平屋建の洋館(ジョサイア・コンドル設計)があった。岩本勝五郎による広大な庭園は相模湾と箱根山を借景としていた[192]。「小田原の大御所」の異名はここに由来する。山県がめったに上京しなくなったことから中央政界の小田原詣でが始まるが、これが山県の威光をさらに演出することとなり、伊東巳代治はこの戦略を「山県式」と呼んだ[183]。隣地には、土地確保に協力した益田孝の掃雲台があり、親しく交流した[183]。そのほか、清浦奎吾大島義昌やまと新聞の松下軍治、山下亀三郎らの別荘が隣接し、周辺地は山県閥のコロニーと化していた[183]
  • 新椿山荘 東京・麹町
    大正6年(1917年)。以前より所有していた麹町区五番町14に隣接地を足して拡張し、東京滞在時の邸宅とした[183]

記念館




注釈

  1. ^ 蔵元仲間は足軽以下の身分(武家奉公人も参照)。
  2. ^ 大正11年に松蔭の生誕地に設置された記念碑の表面に、「吉田松陰先生誕生之地碑 門下生 山縣有朋」と揮毫している[5]
  3. ^ 総人口に占める武士の比率が高かった薩摩藩ではこのような例はなく、西郷や大久保をはじめとする志士は下級とはいえ、みな士分であった。
  4. ^ 山県は時山の死を後悔し、現場の苦戦している様子を和歌で詠み「あだ守る砦のかがり影ふけて 夏も身にしむ越の山風」と長歎したといわれる。また後年に時山の墓を詣で、記念碑を建てる話が上がると碑文を書き、日露戦争前にも時山の死を思い出している[15][16]
  5. ^ この書状は熊本城解放後の4月17日に既に作成されていて(起草は福地源一郎とされる)、6日後の23日に西郷へ送られたが、届いたかどうか分からなかった。城山の戦い直前で山県は改めてこの書状を西郷へ送っている[39]
  6. ^ 市町村会の有権者は満20歳以上(被選挙権は満25歳以上)の男子で、市町村に2年以上住んで地租か直接国税2円以上を納めた人が公民権を獲得、それにより選挙権も認めるという仕組みだった。府県会は市町村会や郡会で選挙された議員が入る複選制で、郡会も町村会員の複選制と互選された大地主で構成されていた[61][62]
  7. ^ 第1回帝国議会での予算案審議に際し、自由党議員の一部を買収して予算案を通過させたことに対する批判の責任を取ったもの。
  8. ^ 藤村道生による、大本営の冬営論に従おうとしなかったために解任されたとの説(藤村道生 1986, p. 160-170、『日清戦争』1973年など)が従来から信じられてきた。しかし斎藤聖二が、当時としては老人とも言える年齢の山県が実際に病状を悪化させていたこと、大本営が既に冬季作戦論に転換していたことを実証して山県の召還は「健康への憂慮」と「戦略上の必要性」にあると指摘(『日清戦争の軍事戦略』2003年)しており、伊藤之雄も藤村の説には疑問を呈している(伊藤之雄 2009, p. 268-277)ほか原田敬一も「病気の軍司令官による冬季作戦はできない、という大本営の判断が山県解任の理由」とする斎藤の説を支持している(原田『日清戦争』2008年、p.187-p.192)。
  9. ^ 省庁、特に内務省の高級官僚から憲政党などの政党員を締め出した。この努力も、後に原敬によって押し戻される結果になる。
  10. ^ 実際に送られた書簡をインターネットで閲覧できる。3-1 2個師団増設問題国立国会図書館)参照。
  11. ^ 当時は軍部大臣現役武官制が施行されており、陸軍が新たな陸軍大臣を推薦しない限り内閣は総辞職をするほかなかった。
  12. ^ ただし、山県自身は倒閣までは予期していなかった。西園寺内閣の総辞職とその後の桂の大命降下には、山県により(内大臣侍従長として宮中に押し込められ、政権復帰を目指していた桂の策謀によるものが大きい(詳細は大正政変を参照)。
  13. ^ なお「平民宰相」として有名な原は、分家により士族から平民になっていたが、生家は盛岡藩の家老家の出身だった。自身が爵位を欲さなかったのは爵位を受けると衆議院議員の被選挙権がなくなることもあったが、伊藤や山県らのように元来の出自が低い新華族(勲功華族)に対する嫌悪感も大きな要因であった。

出典

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