宇野薫 宇野薫の概要

宇野薫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 07:51 UTC 版)

宇野 薫
基本情報
本名 宇野 薫
通称 PRINCE OF HERO'S
総合格闘技のパイオニア
Uno Shoten
リトル・グレムリン
国籍 日本
生年月日 (1975-05-08) 1975年5月8日(48歳)
出身地 神奈川県横須賀市
所属 シューティングジム八景
和術慧舟會東京本部
→フリーランス
→UCS
→UNO DOJO
身長 172cm
体重 65kg
リーチ 178cm
階級 ライト級
フェザー級
バックボーン レスリング
ブラジリアン柔術 (茶帯)
柔道 (黒帯)
テーマ曲 Smells Like Teens Spirit
(Fantastic Plastic Machine Remix)
Nirvana
テンプレートを表示
獲得メダル
日本
男子 グラップリング
アブダビコンバット
1999 アブダビ 77kg級

来歴

中学1年でサッカー部、2年から3年までは野球部に所属[2]横浜高等学校ではレスリング部に所属。同じレスリング部には渋谷修身も所属していた。1993年7月、高校3年時にパンクラスの第1回入門テストを受験するも、不合格となった[2]

スポーツ専門学校に進学後、修斗に興味を持ちシューティングジム八景に入門。この時期に佐藤ルミナの指導を受けた。ほどなくして和術慧舟會に移籍。

1996年全日本アマチュア修斗選手権の決勝戦で桜井速人に敗れ準優勝となる。決勝戦の相手だった桜井速人を相手に10月4日に修斗でプロデビュー。

1998年から外国人選手相手に実績を重ね頭角を現す。1998年10月25日、抜擢を受けて出場したVALE TUDO JAPAN '98にてヒカルド・"リッキー"・ボテーリョにTKO勝ちを収めた。

1999年5月29日、修斗ウェルター級(-70kg)王座決定戦で元師匠の佐藤ルミナと対戦し、スリーパーホールドで一本勝ちを収め王座獲得に成功した。

1999年9月5日、修斗でディン・トーマスと対戦し、スリーパーホールドで一本勝ち。2000年4月2日、修斗でデニス・ホールマンと対戦し、判定勝ち。

2000年12月17日、修斗ウェルター級タイトルマッチで挑戦者の佐藤ルミナと再戦し、右フックでKO勝ちを収め王座の初防衛に成功した。試合後に王座返上と修斗からの撤退を表明した。

2000年12月31日、INOKI BOM-BA-YEでプロレス初挑戦。小路晃とタッグを組み、ザ・グレート・サスケ&松井大二郎と対戦。最後はサスケのラ・マヒストラルでフォール負け。

UFC

2001年2月23日、UFC初出場となったUFC 30で行われた初代UFC世界バンタム級(現ライト級)王座決定戦でジェンス・パルヴァーと対戦し、0-2の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。

2001年11月2日、UFC 34BJ・ペンと対戦し、開始11秒フェンス際でパンチ連打を浴びKO負け。

2002年2月15日、リングスの最終興行となったWORLD TITLE SERIES GRAND FINALで高阪剛と旧リングスルールのエキシビションマッチを行った。

2002年9月27日、UFC 39のUFC世界ライト級王座決定トーナメント1回戦でディン・トーマスと対戦し、3-0の判定勝ち。

2003年2月28日、UFC 41のUFC世界ライト級王座決定トーナメント決勝戦でBJ・ペンと再戦し、1-1の判定ドローで王座獲得に失敗した。

2003年9月26日、UFC 44エルメス・フランカと対戦し、右ストレートでKO負け。

2003年12月7日、全日本キックボクシング連盟のFujiwara Festivalで総合ルールのエキシビションマッチで小林聡とタッグを組み藤原敏男國奥麒樹真と対戦した後、キックルールのエキシビションマッチで小林聡と対戦した。

2003年12月15日、WOLF REVOLUTION meets LUZで魔裟斗と1Rキックボクシングルール、2R総合格闘技ルールのエキシビションマッチを行った。

2004年3月22日、修斗で川尻達也と対戦し、0-1の判定ドロー。

2004年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で元ルンピニースタジアム認定ライト級王者のチャンデット・ソーパンタレイと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。

HERO'S

2005年3月26日、HERO'Sヨアキム・ハンセンと対戦し、膝蹴りでKO負け。

2005年9月7日、HERO'Sミドル級(-70kg)トーナメント準々決勝で所英男と対戦し、3-0の判定勝ち。準決勝で山本"KID"徳郁と対戦し、左眉尻のカットでTKO負け。

2006年8月5日、HERO'S 2006 ミドル級世界最強決定トーナメント準々決勝ではブラックマンバと対戦、長身を生かしたパウンド等で攻め込まれるも、チョークスリーパーで一本勝ち。

2006年10月9日、ミドル級トーナメント準決勝でアイヴァン・メンジバーに判定勝ちするものの、決勝ではJ.Z.カルバンに判定負けを喫し、準優勝に終わった。

2007年3月12日、HERO'S 2007 開幕戦 〜名古屋初上陸〜アリ・イブラヒムに1R腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

2007年7月16日、HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント開幕戦で行われたミドル級トーナメントの1回戦で永田克彦と対戦。ほぼスタンドでの攻防で5分3Rを戦い抜き、3-0の判定勝ち。

2007年8月、10月11日に亀田大毅とのタイトルマッチを控えたボクシングWBC世界フライ級王者内藤大助らと長野県車山高原で合宿を行った。

2007年9月17日、HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント決勝戦で行われたミドル級トーナメントの準決勝でアンドレ・ジダと対戦。ジダの打撃で顔面をカットするなどして攻め込まれ、グラウンドでもいいポジションを取れず、判定負け。この試合で下顎を2箇所骨折する重傷を負った。

DREAM・UFC

2008年5月11日、シード出場となったDREAM.3のライト級グランプリ2回戦で石田光洋と対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。7月21日、DREAM.5のライト級グランプリ準決勝で青木真也と対戦し終始青木のペースに引き込まれ判定負け。

2009年3月17日、UFC公式サイトにて約6年ぶりとなるUFC復帰が発表され、4月10日付けで12年間所属していた和術慧舟會を離れフリーランスとなった(マネジメントはフロム・ファーストプロダクション[3]

2009年6月13日、UFC 99スペンサー・フィッシャーと対戦し、0-3の判定負け[4]。11月21日、UFC 106でファブリシオ・カモエスと対戦し、2Rにグラウンド状態からの顔面蹴りあげでカモエスに減点1が与えられたものの1-0の判定ドローとなった[5]

2010年3月31日、UFC Fight Night: Florian vs. Gomiグレイゾン・チバウと対戦し、パウンドでTKO負け[6]

2010年5月29日、UFCファンエキスポで行なわれたGrapplers Questのスーパーファイトでフレジソン・パイシャオンと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本負け。

2010年7月10日、DREAM.15の休憩中にリングに上がり、フェザー級に階級を下げてDREAM再参戦が発表された[7]

2010年12月31日、フェザー級転向初戦となったDynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜宮田和幸と対戦。宮田にジャーマン・スープレックスで計3度投げられ、0-3の判定負けを喫した[8]

2011年5月29日、DREAM JAPAN GP西浦"ウィッキー"聡生と対戦し、3-0の判定勝ち。

2011年9月24日、DREAM.17リオン武と対戦し、KO負け。

2012年9月30日、修斗でバンタム級キング・オブ・パンクラシストの石渡伸太郎とライト級(-65kg)契約で対戦し、0-3の判定負けを喫した。

2015年1月25日、修斗環太平洋ライト級(-66kg)王座決定戦で中村好史と対戦し、0-3の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。なお、この試合は両者合意の上、ヒジ打ちありのルールで行われた。

2017年4月23日、修斗世界フェザー級タイトルマッチで王者の斎藤裕に挑戦し、0-3の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。

ファイトスタイル

UFCに初期の頃から参戦しており、豊富な経験を持ちバランスの取れた試合運びをするオールラウンダーである。特に寝技の技術には長け、相手にバックポジションを奪われた状態から柔軟かつ的確な動きで脱出する技術は「宇野逃げ」と呼ばれ高く評価されている。




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