天理教 信仰生活

天理教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 13:51 UTC 版)

信仰生活

おつとめ

天理教の最も重要な儀式。正式には「つとめ」と言い、一般的な「てをどり」と「かぐらづとめ」に分けられる。おつとめは天理教の祭儀の中心であり、特に祭典ではおつとめをつとめることが主要行事である。つとめは親神が人間を救済する手段であり、人間側からすれば、親神の守護を受けるための祈念とされている。つとめは信仰生活の基本であり、天理教に入信した者は教理を学ぶと共に、つとめができるよう手振りや鳴り物の稽古する。

「かぐらづとめ」は、10人の「つとめ人衆」がそれぞれ異なる神楽面をつけ(男子女子各3名ずつが「付人」として神楽面装着の補助を行う)、九つの鳴り物(男鳴物/上段西側:笛・ちゃんぽん・拍子木・太鼓・すりがね・小鼓、女鳴物/上段東側:胡弓・三味線・琴)と地方(じかた:歌)に合わせ、真座に据えられた甘露台を囲んでつとめる。また、その時に行われる手振りは親神の守護の理を表現し、このかぐらづとめ全体で人間創造のときの様子を表している。歌は、第一節を21偏(約8分)、第二節を1偏(約90秒)、第三節を7偏ずつ3回(約8分)である。このかぐらつどめは「ぢば」(教会本部)でしか行われない。

かぐらづとめが終わると、「てをどり」がはじまる。人衆も交代し、男女各3名ずつが一列にならんでつとめる。服装はおつとめ衣と呼ばれる黒い紋付である。みかぐらうたの第四節「よろづよ八首」(約5分40秒)・第五節(約67分:一般には十二下りと呼ばれる。ひとくだり約3分30秒〜6分程度を12くだり)をつとめ、前半(「よろづよ八首」および「一下り」〜「六下り」)と後半(「七下り」〜「十二下り」)で人衆を交代する。

教会本部を除く全ての大教会・分教会・布教所では面をつけることが禁止されているので、かぐらづとめの代わりに「座りづとめ」が行われる。おつとめ衣を着用した男女各3名ずつ(おもに教会長とその近親者)が横一列に座ってつとめられ、お歌は第一節を21偏、第二節を1偏、第三節は本部とは異なり3偏ずつ3回(約4分)である。その後の「てをどり」第四・五節は教会本部とまったく同じ。

朝づとめ・夕づとめ

「朝夕のつとめ」とも呼ばれ、朝夕とは「朝な夕な」に親神様に感謝の礼を言い世界の人々がたすかることを願って行われる。朝夕のつとめの手振り、歌は「座りづとめ」と同じであるが、5人の人衆が一列に並び4種類の男鳴物と「数取り」(第一節の21篇を数え間違えないようにするための房状のもので、祭典時は地方が兼任)を使う。鳴り物は神床に向かって左からすりがね・ちゃんぽん・拍子木太鼓で、拍子木と太鼓の間に八足に置かれた数取りがある。朝夕のつとめは教服または法被を着て行う。 信者家庭や不特定の場所、また親神の目標が祀ってある場所でつとめをする場合には普通手振りのみまたは拍子木によるつとめが行われる。この場合は法被を着て行う。人が集まってする場合や講社まつりなどでは数取も使われることが多い。また、教会や「ぢば」などで個人の病気などのお願いをする「お願いづとめ」は特別な形式で行われる。

にをいがけ

天理教における布教活動のこと。「臭いを掛ける」という意味からきており、花がよい香りを放てば、虫が寄ってくるように、信仰に誘うことを指すと解釈されている。にをいがけを行うことが、何よりも親神への御恩報じの実行であるとされている[51]

こどもおぢばがえり

こどもおぢばがえりとは、7月下旬から8月上旬(2019年まではおもに7月26日~8月4日の10日間開催されていた。2020年からは7月26日~8月2日の予定だったが新型コロナウイルスの影響で開催されなかった。そして2023年は7月27日から8月6日にかけて行われた)にかけて行われる子ども向けの行事で、期間中に25万人から30万人の人々が参加し、現在ではその規模から教内の年間行事の中でも最大の行事となっている。宗教法人天理教布教部こどもおぢばがえり課が中心となって運営している。信仰にかかわりなく参加でき、信者詰所で(日帰り参加者もいる)宿泊し、教会本部周辺で行われる様々な行事に参加する。[52]子供達が人間としてより一層成長していくとともに、友情の輪を広げていくという趣旨がこめられている行事である。1953年に開催された「こどもひのきしん」を基盤に、翌1954年に「おぢばがえりこどもひのきしん」の名称でスタートし、1956年から現在の呼称となっている[53][54]。CMがテレビやラジオで放送されていた時代もあり、特にラジオではニュース・パレードで全国放送もされていた。なお、新型コロナウイルスの影響で2020年から2022年には行われていなかったが、2021年からは「夏休みこどもひのきしん」というイベントが開催されている。2022年からは特別企画としてこどもおぢばがえりの中の「鼓笛オンパレード」が復活した。そして2023年、4年ぶりにこどもおぢばがえりが復活した。

お節会

お節会で振舞われる雑煮

お節会(おせち)とは毎年1月5日から7日に教会本部で行われる行事で、期間中、人類の故郷とされる「ぢば」に帰り参拝した人々に、教会本部の元旦祭に供えられていた鏡餅雑煮にして振る舞う。教祖が在世中の明治時代から百年以上続く歴史のある伝統行事であり、約30トンのお餅が参拝者に振る舞われ、毎年10万人前後の入場者がある[55]

別席・ようぼく・教人

別席

天理教において救済手段として教えられる「さづけ」(さづけの理)を拝戴する席を「本席」というのに対し、拝載する前に、教会本部の取次人より、親神の話をきくために別に設けられた席という意味から「別席」と呼称されている[56]。「さづけ」は教祖存命の時期から、信者たちに渡されており、教祖死去後は、本席の飯降伊蔵から「さづけ」が渡されている。現在では「別席順序」に基づき、「別席制度」として運用されている。満17歳以上で別席を運びたいものであれば、あらかじめ申し込めば誰でも聴講することが出来る。聴講の内容は教祖・みきの生涯と教理を端的に示した「別席台本」が読まれる。9度聴講すると「満席」となり、願い出た人に対して「さづけの理」を拝戴することができ、「さづけ」が実行できるようになるとされ、「ようぼく」として認められる。また理を拝頂する際、本部教祖殿において真柱より「おかきさげ」と呼ばれる御神言が書かれた書状が渡される。これはさづけを運ぶ際に守るべきものとして親神が本席を通して指図した神言の要約であり、「ようぼく」が信仰上において守るべき指針や心構えなどが記されている[56]。現在は、「おやさとやかた」の東棟が別席を取り次ぐ、別席場として使用されている。

ようぼく

天理教信者の呼称のひとつ。一般的な宗教における信者に相当する言葉。親神の理想世界である「陽気ぐらし」の世界建設を、建物の建設にたとえ、布教伝道に従事するものを用材としての「用木」に見立てた言い方で、天理教の伝道の場における人材を意味するとされる。漢字では「用木」があてられる。出典は「おふでさき」で、教祖自らその必要性を力説している。「ようぼく」という用語がそのまま教内用語として使用されるようになったのは、終戦後、「復元」が行われ、1949年に『天理教教典』が公布されてからである。1959年(昭和34年)には教規が改定され、信者を表す段階が「信徒・教徒・教師」から変更され、現在では「信者・ようぼく・教人」と呼称されている。別席を9席運び、「さづけの理」を拝戴することで「ようぼく」となる[57]

教人

天理教信者で「さづけの理」を取得してようぼくとなり、さらに教人資格検定に合格し、教会本部に登録されたものを教人(きょうと)という。かつては教師検定があり合格したものを「教師」と呼んだが、1959年に教規の改正により廃止され、教人に変わっている。1988年(昭和63年)以降は、教会長資格検定講習会の前期を修了すれば、教人の資格が与えられているが、講習会への参加には天理大学を卒業したもの、修養科を修了して2か月以上経過したものなど、諸条件がある。さらに教会長になるには後期を満了し、教会長資格検定に合格しなければならない[58]

おさづけ

天理教では、「おさづけ」を取り次いでもらうことによって、病気などの回復を「願う」行為。おさづけの理を取得した「ようぼく」であれば、おさづけを取り次ぐことができる。現在のさづけは「てをどりのさづけ」または「あしきはらいのさづけ」と呼ばれるもので、

あしきはらい たすけたまえ てんりわうのみこと(あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと)

という言葉を定められた手振りに合わせ、3回唱えて、3回病気の患部等をなで、とこれを3度繰り返す[59]

修養科

修養科(しゅうようか)は、宗教法人天理教が主催する天理教の教義等を学ぶ場であり、「ようぼく」を目指す講習会である。奈良県天理市内の天理教の信者詰所で3か月間宿泊しながら、奉仕活動などを通じて教理などを学ぶ。この修養科で教義を学ぶものを修養科生という。満17歳以上の者であれば、誰でも参加することができ、天理教の一般教会などを通じて申し込む[注釈 26]。午前中は天理教の教義を学んだり、おてふり、なりものといった天理教の宗教儀式を練習し、午後は天理教の奉仕活動であるひのきしんを行う。修行は早朝から始まる。修養科は何度でも参加することが出来る。 修養科は1941年(昭和16年)4月に開設され、当初は天理教教師の育成を目的とし、天理教校内に設けられた。終戦後の1953年に、修養科は教会本部内に移管され、現在は内統領所管で「天理教教会本部修養科」と称している。現在では、海外の信者のために英語クラスと中国語クラスが設置されている[60]

講習会

修養科以外の講習会としては、基礎講座、三日講習会、教人資格講習会、教会長資格検定講習会などがある。 基礎講座は信仰を問わず天理教の教義をわかりやすく説明するもので、天理市の他、東京、北海道、福岡、新潟の各教務支庁などでも受講することができる。その他は、原則として天理市で受講する。 また不定期ではあるが、将来の有為な人材の育成を目指して後継者講習会、教祖の年祭など節目に地方講習会や研修会が天理市の他、各地で開催されている。

立教年・誕生祭・年祭

教祖が天啓を受けた1838年を立教元年と位置づけ、以後立教年と呼称している。立教にちなんで10月26日は秋季大祭を執り行い、教祖が誕生した4月18日には毎年誕生祭が行われている。 また教祖が現身を隠してから年祭活動が行われている。1888年に教祖1年祭が行われ、現在は10年単位に年祭を行っている。教団の祭典史に於いて最も規模が大きかったと言われる年祭は、信者数増加のピーク時でもあった1966年に執行された教祖八十年祭で、最も近年に行われた年祭としては2016年1月26日に行われた教祖百三十年祭がある。なお年祭は従来1月26日〜2月18日の24日間にわたり行われていたが、信者減少や教勢衰退に伴い教祖百十年祭から1日のみとなっている。


注釈

  1. ^ 慶應元年(1865年)11月の「御請書」での「天龍王命」、慶應3年(1867年)7月の「裁許状」での「天輪王明神」などの例もあったが、明治以降はおもに「天輪王命」が使われ、更に明治13年(1880年)教祖の息子中山秀司が金剛山地福寺門下で転輪王講社を結成してからは「転輪王命」の例も見られ、おもに「てんりんおうのみこと」と読める神名の文献が多数を占めているが、教会設置公認運動の中で明治18年(1885年)に神道天理教会創立事務所が出した改正諭告で「天輪王命」は神名では無いので古号に復帰して「天理大神」とするようにしている。[3]なお「神道本局の許可を得るため天理王命に改称した」というのは2代目真柱の中山正善がそのような記録は中山家に残っていないとしている[4]。明治19年(1886年)12月に神道本局に提出した書類では「天理王命」となっていたが、明治29年(1896年)内務省から出された天理教弾圧を目的とした秘密訓令に対する改革の一環として「天理大神」と改称した。しかし内部では天理王命の表記を用いるなど、神名を使い分けていた。[5]戦後は天理教教典等で「天理王命」と改めて規定している。
  2. ^ 中山美伎、美支とも。
  3. ^ この他にも「ちば」は「よろづたすけ」の源泉や、天理王命の神名が授かったところであるという意味もあるとされている[2]
  4. ^ 傘下の一般教会での「おつとめ」の時間や「月次祭」の日付はそれぞれ教会ごとで異なる。
  5. ^ 「朝夕のつとめ」は「かぐらづとめ」の「座りづとめ」の部分と同様であり、実際には、「あしきをはろうてたすけたまえ」で始まる詞句を21回、「ちょいとはなし」で始まる詞句を1回、「あしきをはろうてたすけせきこむ」で始まる詞句を3回ずつ3度に分けて唱えている。
  6. ^ 「ぢば」は「地場」、「いんねん」は「因縁」、「おふでさき」は「御筆先」、「みかぐらうた」は「神楽歌」と言った語源があるものの、現在では教団内では全てかなで表記される。
  7. ^ 通常、表側(右側)の襟に所属の本部直属教会名を、下側(左側)の襟に所属分教会・布教所名などを入れる。ただし修養科生が着るハッピについては、表側の襟に「修養科生」、下側の襟に大教会名を書く。
  8. ^ 「どろうみ」の中に混じっていた「うを」(魚)が男の雛形(原型)、「み」(蛇)が女の雛形とされ、夫婦の雛形とし、男雛形には「しやち」(鯱)を仕込み、女雛形には「かめ」(亀)を仕込んでそれぞれ男女を創造したという教え。
  9. ^ 天理教では『人だすけ』と表記。
  10. ^ これに関しては教団内でも教典や教祖・みきのことばの解釈の問題から異論が存在し、また同時にタブー視されている面もある[28]。実際に宗教法人天理教の傘下から離れ、活動している団体もある。
  11. ^ 普段から朝夕に定時定例に行われる「おつとめ」はこの「てをどり」の「座りづとめ」の部分である。
  12. ^ 中野市兵衛の天理教との関わりは、秀司の足の病の祈祷のために天保8年(1837年)10月に寄加持を行ったのがはじめてで、その後は秀司の症状が悪化するたびに中山家で寄加持が行われていた(改訂『天理教事典』, p. 39,146,147,690-695,810)。
  13. ^ 「月日」とは天理教主神・天理王命をあらわすことばであり、天理教では人間にとって身近な存在である月日のように親しみを感じやすくさせるために「月日」と呼ぶとされる(改訂『天理教事典』, p. 549)。
  14. ^ 現在の天理教ではこのことを布教活動である「にを(お)いがけ」の開始としているが、後に教団が信者から献金を受けるために事実が歪曲化、脚色されたという説が存在している。[37]天理教の講師であった八島秀雄ほか、フリーライターの早川和広、宗教学者の村上重良らも史実的根拠が乏しいとして、こかんが浪速へ向かったのは長男・秀司の米相場失敗による借金返済のためであるという説を採用している。
  15. ^ 「扇のさずけ」はみき死後に飯降伊蔵による「御指図」で禁じられている。
  16. ^ 認可は明治維新後に無効となっている。
  17. ^ 教団ではこの一連の活動を「一派独立運動」と呼称している。
  18. ^ 上部団体の包括下にある教会にあっては代表者は教長や会長を称することはできたが、管長は独立した神道教派・仏教宗派でなければ置くことはできなかった[39]。また教派神道の管長は勅任官であり、官吏であった。
  19. ^ 特に第7号には「身を軍籍に奉じて、国家の為に赴く者にありては、挺身武人の亀鑑を垂れ、銃後にありては、身を持すること険素に、勇躍以て奉公の事に従い、率先ひのきしんに参じて、邦家の緩急に応え、教祖様垂示の大精神を発揮して、敢然時艱を克服する為、一手一つに、感奮興起すべき至旬なりと確信す」と、かなり強い語調で各信者への翼賛的協力が指示されている。
  20. ^ 当時、中山みき・78歳。示された場所は、立教の元一日に初めて教祖に神がお下がりになった場所と一致したと言われている。
  21. ^ 天理教では「現身をかくされる」と称する。
  22. ^ この祭典から、参拝者のみかぐらうた唱和が許されている。
  23. ^ 午後2時は教祖・中山みきが死去した時刻で、サイレンがなると信者・参拝者たちは手を止めて黙祷する。なお、同年7月7日からサイレンが現在使用されている「みかぐらうた」のメロディーとなっている(改訂『天理教事典』, p. 1028)。
  24. ^ 善司の実弟・中田善亮の長男であり、2013年4月に中山善司夫妻と養子縁組している。
  25. ^ 1893年(明治26年)2月10日付けで一般教会は「分教会」「支教会」「出張所」「布教事務取扱所」の4つとされたが、一派独立時の明治41年(1908年)11月27日に制定された天理教教規により「大教会」「教会(1927年から中教会)」「分教会」「支教会」「宣教所」の5つに規定された。その後1941年(昭和16年)3月31日の教規改正により「大教会」「分教会」の二段階制度に改められた。[49]
  26. ^ ただし、申し込み先の所属の大教会の独自の募集条件を課す場合があり、例えば、ようぼくになっていることが条件になっている場合や募集月を3か月ごとにする場合もある。
  27. ^ 京城大教会など、当時の名称のまま日本国内に移転した教会が多い。
  28. ^ 論文内では『稿本天理教教祖伝』の編纂当初では「ひながた」について、当時の『天理教教典』に準じてみき誕生からの90年と、立教後の50年の二つの「ひながた」の見方があったものの、第五稿以降は後者の意味に限定されていることも指摘している[67]
  29. ^ おなじく櫟本分署跡保存会の事務局長川本しづ子が教会長をつとめる天理教本常一分教会も、審判会も行なわずに罷免して裁判になっている。その後、和解し現在は天理教から独立している。
  30. ^ ただし、植田は八島の考察を「教祖の天啓やひながたを人間的なレベルの思想や行動と受け取り、霊魂や転生を否定し、心身を唯物的に認識していることには同意できない」としている(天理教みさとブログ<原典からの出発>「5/25 月例会報告」)。
  31. ^ 『改訂天理教事典』の「中山こかん」の説明には、嘉永6年(1853年)に「天理王命」の神名を伝えに行った、とあるが、「てんりんおうのみこと」の説明では、32年後の明治18年の公認運動の頃から「天理王命」の字に一定した、との記述がある( & 改訂『天理教事典』, p. 662)。
  32. ^ この本は天理教の機関紙『天理時報』に1950年10月29日から1957年9月8日までの7年間、338 回に渡って連載された長編伝記小説。
  33. ^ かつては金光教の名前に由来する岡山県金光町が存在したが、平成の大合併により消滅(現:浅口市)している。

出典

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  8. ^ a b c d e f g h 池田士郎「庄屋善兵衞とその妻 : 天理教立教当時の精神史点描」『天理大学人権問題研究室紀要』第9巻、天理大学人権問題研究室、2006年3月、1-17頁、CRID 1050001338429408256ISSN 1344-08022023年12月21日閲覧  p.1 より
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    《所収》宮家準『神道と修験道 : 民俗宗教思想の展開』春秋社、2007年11月。ISBN 9784393291962国立国会図書館書誌ID:000009174393https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009174393 
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