大雲院 (京都市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/28 23:27 UTC 版)
歴史
天正15年(1587年)、織田信長とその子信忠の菩提を弔うために正親町天皇の勅命を受け、安土宗論で活躍した浄土宗の僧・貞安(じょうあん)が開山となって創建された。場所は信忠が自害した二条新御所の跡地(烏丸御池)で、大雲院という名は信忠の戒名から採られたものである。また、火除天満宮をその鎮守社とした。
しかし同年中に京都の改造を理由として、豊臣秀吉の命で四条寺町南(現・下京区貞安前之町)に移るように指示され、天正18年(1590年)に四条に移ったといわれる。この後、後陽成天皇の勅願所となっている。また、江戸時代には日向国佐土原藩主島津氏が檀越となった。
天明8年(1788年)1月の天明の大火、次いで元治元年(1864年)7月の禁門の変後に発生したどんどん焼けで焼失し、明治時代初期にようやく再建された。しかし、神仏分離により火除天満宮は当寺から独立した。第1回京都市会は当寺で行われている。
太平洋戦争後になると次第に四条河原町の周辺は繁華街となっていき、また隣接する髙島屋京都店の増床に伴い移転することにし、1973年(昭和48年)4月に東山区にあった大倉財閥の設立者・大倉喜八郎が建てた別邸「真葛荘[1]」の一部を買得して寺基を移した。その際、本堂は智積院に移されて明王殿(不動堂)となった。
2014年(平成26年)、京都市下京区の河原町通四条の発掘調査で旧大雲院の敷地跡から豊臣秀次の供養塔の一部とみられる石材が見つかった[2]。大雲院は秀次の切腹後、三条河原で処刑された秀次の側室らを供養したとする文献もあり、裏付けがなされたことになる。
ねねの道は当寺によって折れ曲がった道になっている。
妙心寺大雲院(非現存)
同じく織田信忠の慰霊のために、妙心寺にも同名の大雲院が建立された。
こちらは妙心寺56世の九天宗瑞と、宗瑞の妹で信忠の乳母かつ信長の側室であった慈徳院らが尽力して創建したものである。二人は信長の重臣であった滝川一益の子と伝わる。ここには、二条新御所で九死に一生を得た織田長益の子の長孝が葬られたという記録がある。
一方、同じ妙心寺内の隣接地に、天正9年(1581年)に滝川一益と同じく九天宗瑞が開いた「暘谷庵」を、一益の娘婿であった津田秀政が慶長11年(1606年)に再興し、「暘谷院」と名付けて津田氏の菩提寺とした。慶長17年(1612年)に宗瑞が、寛永12年(1635年)に秀政が90歳で死去すると、暘谷院は秀政の法号にちなんで「長興院」と名を変えた。この長興院が元禄5年(1692年)に隣接する大雲院を合併したため、妙心寺大雲院は現在はない[3]。
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