大阪大空襲 第7回大阪大空襲 - 7月24日

大阪大空襲

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第7回大阪大空襲 - 7月24日

空襲後の国鉄森ノ宮駅ホーム

1945年7月24日に住友金属工場および大阪陸軍造兵廠を狙っておこなわれた。117機が木津川飛行場および伊丹飛行場(現在の大阪国際空港)を爆撃したあと、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠へそれぞれ向かった。しかし大阪陸軍造兵廠へ向かった飛行機は、一部の機が造兵廠への爆撃を実施したものの、大半の機は上空の視界不良・天候不良として爆撃を断念し、予備の攻撃目標とされていた三重県桑名市へ向かい桑名空襲を起こしている。

第8回大阪大空襲 - 8月14日

京橋駅南口の大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑(城東区新喜多)
空襲から10ヶ月後の京橋駅(1946年6月)

1945年8月14日に約150機のB29が大阪への空襲をおこなった。アメリカ軍機は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700個の1トン爆弾を集中的に投下した。国鉄京橋駅(大阪市都島区東野田町から城東区新喜多の周辺)で夥しい犠牲が発生したことから、この空襲は、「京橋駅空襲」ないしは「京橋空襲」とも呼ばれる。

大阪陸軍造兵廠への爆撃はこれまで失敗に終わっていたが、この空襲で造兵廠は壊滅。また大阪城内にも着弾し、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失、その他に石垣の一部が崩落するなどの被害が出た。造兵廠の北東に位置する京橋駅周辺には同日13時頃、1トン爆弾4発が落下した。

京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところだった。居合わせた多くの乗客が、立体交差する階下の片町線ホームに避難していた。そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けた。この空襲での犠牲者は、身元の判明している者だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500 - 600名以上いる(遺体の損傷が激しく正確な犠牲者数は不明)とされている。

1955年から毎年8月14日に京橋駅南口(城東区新喜多)で慰霊祭が行われている[13]。慰霊祭に当初から関わってきた大阪市旭区の妙見閣寺[14]は後世に記憶を語り継ぐため空襲体験者や遺族の証言を映像に残す取り組みを始めた[15]

日本政府に対する訴訟

2008年12月8日、大阪大空襲の民間人被災者とその遺族らが、国は旧軍人軍属には援護制度を整備しているのに対し、民間人被災者については何ら援護せず放置してきており、日本国憲法第14条法のもとの平等に違反するとして[16]、国による被害の放置は違法だとして、1人当たり1,100万円の損害賠償と謝罪などを求めて大阪地裁に集団で訴訟を起こした。第二次世界大戦中の日本への空襲を巡り被災者から訴訟が起こされるのは、2007年3月東京地裁に起こされた東京大空襲を巡る訴訟に次ぎ2例目[17]2011年12月7日に同地裁は、「軍人・軍属らとの補償の差は国会の裁量で講じられており、明らかに不合理とは言えない」として、原告の請求を棄却した[18]2013年1月16日大阪高裁の控訴判決は国民の受忍限度で棄却され、最高裁に上告[16]2014年9月16日までに最高裁は上告を棄却、原告側の敗訴が確定した。決定は11日付け[19]。これらは原告の敗訴ではあるが、大阪空襲訴訟・弁護団では、判決文中には「逃げずに火を消せ」とする防空法や「空襲は恐るるに足りず」とする情報統制によって国民が危険な状況に置かれたことなど、詳細な認定がされていると評している[20]


  1. ^ 東大寺長老の筒井寛英は「二月堂から見ると生駒山をシルエットに、大阪の空が真っ赤に染まっていました」と記している(『誰も知らない東大寺』小学館、2006年)。このとき東大寺は修二会(お水取り)の期間中で、「お松明」は灯火管制のため扉を閉めて おこなわれていた。
  2. ^ 後述の毎日新聞記事によると、当時、大阪市の食糧倉庫として使用しており常時閉鎖されていた。
  3. ^ 後述の毎日新聞記事によると、難波駅から乗ったという証言は得られなかったという。
  4. ^ 村松が後に読売新聞に体験を語った記事がある[1]
  5. ^ 資料が現存しない点について、「大交」の記事では「敗戦直後に戦争責任の追及を避けるため意図的に廃棄した」としている。
  6. ^ 公営交通研究所が1999年に刊行した『大阪大空襲と市営交通事業』に資料として収録。このほか、証言が記載された資料について、以下の大阪市立中央図書館レファレンス事例に紹介がある。
  7. ^ 後述の連続テレビ小説『ごちそうさん』ではこの説を採用しており、主人公の西門め以子が門の開場に難色を示す職員に「この地下鉄はうちの旦那が作ったんや」と言って説き伏せてむりやり開けさせている。
  8. ^ 「大交」の記事には3月13日の朝に大阪鉄道局長の佐藤栄作(後の首相)が大阪市電気局(後の交通局)局長に「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話をかけていたという話(『続東区史』別巻(1979年)からの引用)が紹介されているが、送電指示との関連は不明である。
  9. ^ 列島リレードキュメント 空襲の夜 地下鉄は走った~大阪・大阪市 NHKアーカイブス
  10. ^ NONFIX 千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか。大空襲のあった地元の関西テレビでは2008年1月20日深夜に放送。
  11. ^ 「大交」の記事によると、午前3時30分頃にNHKラジオで「警報解除後、電車を運転するので、防空要員は復旧に当たってほしい」と3度放送があったという(「鉄道ピクトリアル1965年8月号掲載の「大阪市路面電車戦災の記」(宮本政幸)からの引用)。
  12. ^ 「大空襲 一夜の奇跡 地下鉄・御堂筋線」朝日新聞大阪版2009年12月26日
  13. ^ 京橋大空襲から77年 「2度と繰り返してはいけない」遺族らが追悼”. 毎日新聞 (2022年8月14日). 2022年8月15日閲覧。
  14. ^ [2] 妙見閣寺公式サイト
  15. ^ “終戦前日の悲劇、後世に 大阪・京橋駅空襲犠牲者悼む”. 産経新聞. (2020年8月14日). https://www.sankei.com/article/20200814-ET4IYQZGGJOK3NPIOCMVARPTPU/ 2020年8月14日閲覧。 
  16. ^ a b 2013年8月17日23時NHKEテレ放送ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後~」
  17. ^ 大阪大空襲の被災者ら、賠償求め集団提訴4府県18人 朝日新聞 2008年12月8日
  18. ^ 空襲被災者らの請求棄却 大阪など5空襲訴訟で地裁判決 朝日新聞 2011年12月7日
  19. ^ 被災者ら敗訴確定=大阪大空襲訴訟-最高裁 時事ドットコム2014年9月16日
  20. ^ この判決はスゴイ! 大阪空襲訴訟 大阪空襲訴訟弁護団2014年10月






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