国鉄オハ35系客車 試験

国鉄オハ35系客車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 08:37 UTC 版)

試験

高速台車試験

本系列で特筆される事柄の一つに、各種新型台車の試験採用が挙げられる。

ゲルリッツ式台車試験

まず、戦前には1940年(昭和15年)に試作されたゲルリッツ式台車が装着された。

ゲルリッツ式台車はWUMAG(Waggon- und Maschinenbau AG Görlitz: ゲルリッツ客車機械製造所)がDRG(Deutsche Reichsbahn Gesellschaft: ドイツ帝国鉄道)のD-zug(Durch-zug: 日本語に直訳すれば直行。一般的には急行と解される)向け客車用高速台車として、従来のイコライザー式台車に代わるべく1923年大正12年)に開発したGörlitz Iをルーツとし、第二次世界大戦後に後継となるミンデン・ドイツ (Minden-Deutz) 式台車が制式採用されてこれに取って代わるまで、改良を重ねつつ20年以上に渡ってドイツ国鉄の客車用標準台車の座にあった。

これは、当時の鉄道省部内に存在した「車輛委員会」で検討されていた「台車構造の改良について」および「車体動揺を緩和する台車各部の構造の研究」という2つのテーマの研究過程で、当時欧米で用いられていた新型台車と同様の構造の台車を試作し、実際に車両に装着して試験走行を行ってその優劣を検討することになった際に、2種の試作台車を各1両分ずつ鉄道省大井鷹取の両工場が製造した。

軸箱部分を上部の重ね板ばねと2本のコイルばねで支持する、本来のゲルリッツ式(時期や構造から、プロトタイプとなったのはGörlitz IIと見られる)に忠実な設計のタイプと、TR73の軸箱と側枠およびトランサムの設計を流用し、揺れ枕部分の設計を前者に準じた方式に変更した折衷型と呼ばれるタイプの2種が試作された。いずれも軸距が3.3 mに達する異例の超ロングホイルベースであったが、これは全長1.8 mと非常に長い重ね板ばねを両端で2段リンク支持して線路方向に設置し、この上に直接枕梁を載せる(このため通常の揺れ枕をもたない)、ゲルリッツ式台車の機構上の制約によるものである。なお、前者は形鋼や板材をリベット組み立てとしたため非常に無骨な外観であったが、その一方で構造上側枠の位置が低く、車体を支持する側受が高く突き出した特徴的な外観を呈していた。

大井工場の担当分は2種とも既存のスハ32形などに装着して試験走行が実施されたが、鷹取工場の担当分は竣工間もない1940年(昭和15年)2月製で長柱側柱・張り上げ屋根試作車であるスハ33650形スハ33742・スハ33743(称号改正後はオハ35形オハ35 93・オハ35 94)に装着の上で試験が実施された。スハ33743にゲルリッツ式が、スハ33742に折衷型が装着された。

これらの台車は110 km/h運転時でもTR23での95 km/h運転時に匹敵する、あるいはそれ以上の揺動特性であったとされるが、その後の報告は途絶えており、日米開戦で貨物輸送能力の増大が求められるようになった当時の世相では、客車の高速運転研究は継続が困難になって中止となったものと見られている。

もっとも、当の鷹取工場製試作台車はその後も2両のオハ35形に装着されたまま、戦後しばらくは山陽本線や播但線などで営業運転に使用されており、乗車の機会を得たアマチュア鉄道愛好家による、その優れた乗り心地や超ロングホイルベースに起因する間延びした独特のジョイント音などについての実見報告が今に伝わっている[注 24]

その後新型台車の実用化で役割を終えて通常のTR23に交換された。これに対し、大井工場製の方は少なくともゲルリッツ形が1956年(昭和31年)までスハ32 479に装着の上で使用され、ここで台車振り替えを実施されて淘汰されたことが知られており、折衷型もこれに前後して淘汰されたものと見られている。なお、これら2種の台車は軸距は3軸ボギー式のTR73の第1軸 - 第3軸間に匹敵したが、そのままでは3軸ボギー式台車を装着していた車両に営業運転可能な状態で装着することは不可能であった。

OK形台車試験

これに対し戦後には1949年(昭和24年)に川崎車輌が試作したOK-2がオロ41 6で試用された。

このOK-2は制式採用にこそ至らなかったものの、同系の改良機種であるOK-4(国鉄形式DT29)がのちに175 km/hの狭軌世界最高速度記録を達成したことでも明らかなように、のちの新幹線実現へと連なってゆくこととなる高速台車振動研究会の研究の一環として開発されたものであり、ここで得られた成果は再度研究の場にフィードバックされ、以後の高速台車開発に貴重な知見を提供した。


注釈

  1. ^ ただし戦後の同様例とは異なり、番号上での明確な区分は行われていない。
  2. ^ ただし、戦後すぐの新潟鐵工所担当分では戦災で廃車となった車両から回収されたTR23を再利用したことが確認されている。なお、戦後は床下機器の増加や台車設計の改良、それにばね定数の見直しなどで優等車についても2軸ボギー式台車を使用することとなったため、一度は仮称TR77としてTR23に対するTR34に相当するTR73をころ軸受化した台車が設計されたものの、結局戦後は国鉄客車用3軸ボギー式台車は一切製造されていない。ただし、TR73はソビエト(樺太)向け輸出車両に装着されており、少数であるが戦後も製造実績があった。また、TR73そのもののころ軸受化は遙か後年になって、JRの分割民営化後にJR西日本のマイテ49 2とJR東日本の1号御料車編成の供奉車でそれぞれ施工されている。
  3. ^ ただし設計した扶桑金属工業の配慮により、どのメーカーでも製造が可能なように鋳型が分割されていて横梁(トランサム)と端梁は側枠とは別体で鋳造されており、第2次世界大戦前に設計された大阪市交100形電車(初代)用KS-63Lのような完全一体鋳鋼製台車枠ではない。
  4. ^ 扶桑金属工業が国鉄モハ63形および南海電鉄クハ2801形用として納入したFS-1(製作番号:H150〈国鉄向け〉・H2025〈南海向け〉、別名KS-73W、国鉄向けの形式名はTR37X→TR37→DT14、南海での社内呼称はF-24)を基本に設計されたもの。
  5. ^ 車内には通路上に痰壺がそのまま残されていた。この痰壺は戦前製優等車特有の装備であり、結核予防の見地から設置されていたという。
  6. ^ オハ40形も含む。
  7. ^ 同じ1936年(昭和11年)、南海鉄道(当時)が南海線用のクハ2802大阪金属工業製ミフジレータ冷房装置を車載用に改造したものを6月に搭載して7月21日より営業運転を実施しており、8月に営業を開始した本形式に先んじた冷房化の実現であった。
  8. ^ これにより窓の開閉は困難となったが、冷房装置の設置を前提として設計されていたため、この問題は重要視されなかった。
  9. ^ 前者は発電機の出力がほぼそのまま冷房装置の駆動用電動機に入力されて蓄電池が介在しておらず、また後者も車輪から得た回転力で直接圧縮機を駆動していたため、いずれも停車中は冷房が停止する仕様であった。
  10. ^ 軍番号および軍名称は順に2203 HUDSON2220 NEWARK2202 BLOOMINGTON2208 KIMBERLY2205 CEDAR RAPIDSとされた。
  11. ^ スシ37854→スシ38 5が戦災廃車のためマシ38 5は元スシ38 6である。
  12. ^ その後1以外は広島運転所に転属となり、1も2の火災廃車後に同所に転属となっている。
  13. ^ ジュラルミンはアルミ合金の中でも特に溶接が困難で、現在でも一般にリベット組み立てが用いられる。
  14. ^ 東京 - 下関間を結ぶ関釜航路連絡列車の一つで、1907年明治40年)設定の各等急行第5・6列車、さらには山陽鉄道時代の「最大急行」をそのルーツとする。国有化後は各等急行第301・322列車として大阪 - 下関間で運行。1907年(明治40年)のダイヤ改正で新橋 - 大阪間の延長が実施され、各等急行第5・6列車となった。運行時間帯が良く乗車率が高いことで知られた、当時を代表する名士列車の一つである。
  15. ^ なお、オイテ27000形はこの「富士」の鋼製車への置き換えまでは、特別急行第1・2列車(東京 - 神戸間)と急行第7・8列車(京都 - 下関間)をうまく組み合わせて、東京駅→(1列車)→神戸駅→(302列車に併結して回送)→京都駅→(7列車)→下関駅→(8列車)→京都駅→(303列車に併結して回送)→神戸駅→(2列車)→東京駅、と一体で運用されており、5両という製造数も運用に必要な4両+検査予備に必要な1両(実際にはもう1両、オイテ27000形の先代に当たるオイネテ17000(旧ステン9025)が予備車として待機していた)という構成に由来するものであった。
  16. ^ オイテ27001・27003の2両が選出された。なお、オイテ27000形は5両が新造され、第7・8列車にはオイテ27001 - 27004の4両が使用されていたが、残る2両は1942年(昭和17年)の同列車廃止まで使用された後、1943年(昭和18年)に吹田工場で通勤形客車のオハ28000形に改造され、唯一、第7・8列車に転用されなかったオイテ27000は「富士」の予備車として残存したものの、既に1935年(昭和10年)に大井工場でマニ29511に改造されていた。
  17. ^ 国際連絡列車としての性格を備える「富士」の場合、展望車の前位に一等寝台車が連結されていてこれに区分室が設けられていたため、展望車には区分室を設ける必要がなく、そのため「富士」用として新製されたスイテ37040形は室内の大半が開放室であった。
  18. ^ 大正時代の設計のためインチサイズで設計されているほか、各部材が形鋼で組み立てられていたことから端梁を鋳鋼製に、中揺れ枕およびアーチ棒、心皿、ブレーキ関係をTR73(図面番号VA3068)のものに交換されている。
  19. ^ この際、分電盤室設置のため4位出入台を閉鎖、6名用区分室が拡張されて旧備品室の側窓は中柱を抜き1,500 mm幅の一枚窓に変更された。なお、出入台閉鎖は2に対しても施工されている。
  20. ^ のちに座乗司令官の交代でCOLUMBUSに改名された。
  21. ^ 本車と1517には完全切妻に折妻車用の尾灯が設置されていたので尾灯の光軸は内側に向いていた。また台車はのちにTR34に振り替えられた。
  22. ^ 同様の格下げは、旧型電車(70系80系など)や準急型気動車(キハ55系など)の一等車にも行われた。
  23. ^ 戦災廃車されたマニ31 55と、マニ32 91 - 93に改造されたマニ31 22・33・45を除くマニ31 19 - 58が番号順に95 - 130に改造される予定だったが、マニ31 24・26 - 29・32・35 - 37・40・41・47・48・51・53・54・56 - 58が改造された時点で改造は中止された。
  24. ^ 戦後、汽車製造で台車開発の指揮を執った高田隆雄の回想(連載記事「台車とわたし」 『鉄道ジャーナル』)では、枕バネに板バネを使用している以上はTR23と比較して可もなく不可もなく、との評を残している。
  25. ^ 1990年(平成2年)に日本国有鉄道清算事業団から譲渡されたという説もある。
  26. ^ 大井川鐵道の公式SNSでは、2011年(平成23年)から休車中であったとされているが、交通新聞社発行の『私鉄車両編成表2018』では、同年11月19日付で廃車となったとされている。
  27. ^ オハ35 206の内装は原型に近かったのに対し、オハフ33 115は近代化改装が行なわれていた

出典

  1. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(前編)」『鉄道ピクトリアル』2004年7月号、p.49
  2. ^ 岡田誠一ほか「星晃氏に聞く 戦後の旅客車設計」『鉄道ピクトリアル』2004年7月号、p.19
  3. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(前編)」『鉄道ピクトリアル』2004年7月号、p.50
  4. ^ a b c 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(前編)」『鉄道ピクトリアル』2004年7月号、p.51
  5. ^ オロ40形式図(図面番号VC03011およびVC03029)による。『オハ35形の一族』上 pp.176, 177参照。
  6. ^ 『オハ35形の一族』上 p.158による。
  7. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(前編)」『鉄道ピクトリアル』2004年7月号、p.58
  8. ^ 岡田誠一ほか「星晃氏に聞く 戦後の旅客車設計」『鉄道ピクトリアル』2004年7月号、p.11
  9. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(前編)」『鉄道ピクトリアル』2004年7月号、p.61
  10. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(前編)」『鉄道ピクトリアル』2004年7月号、p.62
  11. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(前編)」『鉄道ピクトリアル』2004年7月号、p.63
  12. ^ a b c 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(前編)」『鉄道ピクトリアル』2004年7月号、p.65
  13. ^ a b 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(後編)」『鉄道ピクトリアル』2004年8月号、p.12
  14. ^ 『特別職用車』、RP750による。
  15. ^ 『特別職用車』p.10。同日の写真はp.56。
  16. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(後編)」『鉄道ピクトリアル』2004年8月号、p.13
  17. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(後編)」『鉄道ピクトリアル』2004年8月号、p.19
  18. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(後編)」『鉄道ピクトリアル』2004年8月号、p.18
  19. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(後編)」『鉄道ピクトリアル』2004年8月号、p.22
  20. ^ a b 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(後編)」『鉄道ピクトリアル』2004年8月号、p.24
  21. ^ a b 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(後編)」『鉄道ピクトリアル』2004年8月号、p.14
  22. ^ a b c d 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(後編)」『鉄道ピクトリアル』2004年8月号、p.15
  23. ^ a b c d e f 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(後編)」『鉄道ピクトリアル』2004年8月号、p.25
  24. ^ 岡田誠一「オハ35系客車のあゆみ(後編)」『鉄道ピクトリアル』2004年8月号、p.26
  25. ^ 新しい旧型客車「35系」完成…JR西日本『SLやまぐち号』に導入 レスポンス、2017年6月4日(2024年3月1日閲覧)
  26. ^ a b c 『鉄道ピクトリアル』通巻749号 p.25
  27. ^ a b c 『鉄道ピクトリアル』通巻749号 p.26
  28. ^ 旧国鉄の座席、無断で競売に 北九州市所有の客車から - 共同通信、2024年5月24日
  29. ^ a b 交友社鉄道ファン』1996年10月号 通巻426号 pp.102 - 103
  30. ^ 交友社鉄道ファン』1996年8月号 通巻424号 p.120
  31. ^ 交友社鉄道ファン』1996年7月号 通巻423号 p.148






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