国分寺 国分寺の概要

国分寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 14:45 UTC 版)

正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。

概要

国分寺出土瓦
東京国立博物館展示。

日本の国分寺・国分尼寺の先例として、を建国した文帝・楊堅による大興国寺(大興善寺)があった。その後のでは、則天武后による大雲寺、中宗による竜興寺観、玄宗による開元寺があった[1]

聖武天皇は、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。

続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立のが出された。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた[2]

国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞った。 天平19年(747年)11月の「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まった[3]

国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国東大寺法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。

律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた[注 1]。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており[注 2]、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。

国分寺建設地の選定

国分寺の建設地の選定における条件は、石田茂作の諸国国分寺の調査成果により『東大寺と国分寺』により示されている[4]

地形的条件

①国華として仰ぎ見るのによい地形
②水害の憂いなく長久安穏の場
③南面(向)の土地

都市計画的条件

④人家の雑踏から離れている
⑤人の集合するのに不便でなく、交通至便の地
⑥条里制区画(六町四方を一里とする方形地割にもとづく土地制度)の拘束を甘受すること

政治的条件

⑦国府(役所)に近いところ(国司が国分寺を監督したことによる)
— 国分寺市教育委員会ふるさと文化財課『見学ガイド武蔵国分寺のはなし』(1989年)、16-17頁。

注釈

  1. ^ 国分尼寺は国家が認めた尼を置く規定であったが、奈良時代中期に戒律が伝わると、朝廷は正式な僧侶の要件に授戒を受けるという条件を追加しながら、女性の授戒を禁止するという矛盾した方針を採ったために、国分尼寺に止住出来る尼がいなくなってしまい、結果的には国分尼寺そのものの存在意義が否定されてしまった。
  2. ^ 特に鎌倉時代後期以後に、荒廃・衰微した各地の国分寺を保護・再建して末寺化した大和国西大寺及び同末寺の鎌倉極楽寺の影響は大きいとされている(両寺は真言律宗の本山。明治時代初期に、真言律宗が真言宗に一時的に強制統合された影響で、真言宗に改宗した寺院もある)。
  3. ^ 大和国分寺は一般に総国分寺の東大寺とされるが、『大和志』では橿原市の国分寺に比定する(「国分寺」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年)。

出典

  1. ^ 須田勉 佐藤信[編]『国分寺の創建 組織・技術編』吉川弘文館p2
  2. ^ 国分寺建立の詔(武蔵国分寺跡資料館)
  3. ^ 須田勉 佐藤信[編]『国分寺の創建 組織・技術編』吉川弘文館 p27-28,p288
  4. ^ 石井茂作、『東大寺と国分寺』日本歴史新書、至文堂、(1959年)、246p
  5. ^ 『国史大辞典』国分寺一覧表を基に、現状況を考慮して修正を加え掲載。


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国分寺 (曖昧さ回避)

(国分寺 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/18 19:05 UTC 版)

国分寺(こくぶんじ)は、741年天平13年)に日本の各地に置かれた寺院。




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