信玄公旗掛松事件
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権利濫用論に与えた影響
末川論文
「権利濫用」の概念は、19世紀後半にフランスで判例法として確立された。日本国内では明治期に牧野英一・富井政章らによって日本に導入され、前述したように明治法律学校(現明治大学)や、和仏法律学校(現法政大学)などの私立法律大学において、信玄公旗掛松事件の弁護士を務めた藤巻嘉一郎をはじめ、法学を志す多くの日本人がその概念を学んだ[100]。しかしながら「権利濫用」の概念は当時の明治民法では触れられておらず、当然ながら現実の裁判において「権利濫用」が援用される事例は信玄公旗掛松事件以前にはなかった。
信玄公旗掛松事件が1919年(大正8年)3月に、原告勝訴として大審院で結審すると、判決に触発された末川博は同年8月に『権利の濫用に関する一考察 -煤烟の隣地に及ぼす影響と権利行使の範囲 - 』(『法学論叢』第一巻六号、1919年8月。のち、末川博『権利侵害と権利濫用』岩波書店、1970年7月に収録[101]。)と題する論文を執筆する[102]。末川博は後に立命館大学名誉総長となる日本を代表する著名な法学者であるが、この論文を書いたのは京都帝国大学大学院法科に在籍中のことであり、この論文は末川の処女論文でもあった[103]。
この論文で末川は、ローマ法、スイス民法、ドイツ民法、イギリス法を検討しつつ、
- 今、我民法上の規定に付きて考ふるに、此点に関しては、何等の明文存すること無し
- 判例の採れる見解に対して、賛意を表するものなりと雖も、その賛意を表するに先ちて、一応、所謂権利の濫用なる観念に付きて、考察する必要あるを感ず
このように述べ、社会観念上の秩序、公序良俗等と権利行使の範囲とを検討し、信玄公旗掛松事件の大審院判決は「頗(すこぶ)る当を得たるものなりと云はざるべからず」と高く評価した。 末川博はこの論文研究を端緒として「権利濫用論」の研究を生涯にわたって続け、「権利侵害から違法性へ」というテーゼを立て、不法行為法の再構築をすべきとの学説を唱えた[104]。やがてそれは我妻栄、青山道夫ら、多くの法学者へと波及していくこととなり、明治民法の下では全く触れられていなかった「権利濫用論」が、現行の日本国憲法第12条、および現行の民法1条基本原則3項において、「権利の濫用は、これを許さない。」と規定され、第709条、第834条それぞれの条文中に「権利濫用」が明文化されることに至った[105][106]。
信玄公旗掛松事件判決後、権利濫用の概念が独立して問題となった著名な事件として、宇奈月温泉事件(1935年・大判昭和10・10・5民集14巻1965頁)、板付空港事件(1965年・最判昭和40・3・9民集19巻2号233頁)へと続いていった[107]。
末川博は1977年(昭和52年)2月16日に亡くなった。その翌日2月17日付朝日新聞夕刊の「今日の話題」における論説では以下のように紹介されている。
- ……民法学者としての末川さんの業績は、権利濫用論の禁止を理論化し、集大成してきたことである。
- 有名な大審院判権〔ママ〕に「信玄公旗掛松事件」というのがある。武田信玄ゆかりの名木が、国鉄〔ママ〕の汽車のバイ煙のために枯れたというので、松の所有者が国を相手どって損害賠償の訴えを起こした。
- 今日の公害訴訟のはじめだが、大正八年、大審院は原告の主張を認めて、国の敗訴を言い渡した。
- この判決が、終生のテーマとして「権利の乱用〔ママ〕」を選ばせるきっかけだった、と末川さん自身が書いている。が、同時にそれはまた末川さんの生きざまの投影でもあった。
- 権利の主張も、節度とけじめが伴わなければならない、というのが末川さんの持論であったようだ。…… — 今日の話題 -ひとすじの道- 『朝日新聞』 1977年2月17日夕刊(新藤(1990), p. 143-144)
判例・事例としての意味
信玄公旗掛松事件は日本国内の法曹界で著名な判例ではある。しかし、今日の民法講義等で使用される教科書類では、内田貴『民法II』(東京大学出版会2007年)、大村敦志『基本民法II』(有斐閣2007年)などで、受忍限度論の登場に至る過渡的なものとして取り上げられているに過ぎず、いわゆる先例判例として法学部の講義等で取り上げられる機会は少なくなっている[108]。その理由を2007年の窪田充見『不法行為法』では次のように説明している。
- 今日では……権利の行使であるが、適当な範囲を逸脱しているから権利の濫用であり、不法行為になると説明する必要は無い。……それでは、なぜ信玄公旗掛松事件は、権利の濫用として取り上げられたのだろう。この背景には、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』というローマ法に由来する考え方があったとされる。つまり、この法諺(ほうげん)を前提として、鉄道の運行というものを権利行使と考えるところから出発すれば、不法行為責任を認めるためには、権利の濫用という、もうひとつの概念が必要とされたのである。しかしながら、……今日では、こうした問題について、そのような説明はしていない。それは、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』という前提自体が、もはや共有されていないからである。……このように考えてくると、信玄公旗掛松事件におけるようなタイプの権利濫用の禁止の法理は、それが克服すべき前提(つまり、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』という考え方)が失われた今日では、すでにその意味を失っているとみてよい。 — 『不法行為法』 窪田充見 (2007) pp.59-60[109]
今日、信玄公旗掛松事件判例は、権利行使の違法性を強調するために「権利濫用論」が引き合いに出されたものと位置づけられており[30]、現実の裁判では実例の意味として機能しておらず、実質的な判例の意味を失っていると考えられている。しかし、この判例以前には「国による権利は絶対である」という社会風潮が存在していたということ、それが信玄公旗掛松事件を通じて克服されたという歴史的事実に意味があり、明治・大正期の国家や地域社会、さらに当時の法学者と外国法理の関わりの一例を示すなど、近代日本法理の歴史を理解する上で重要な事例と位置づけられている[108]。
注釈
- ^ 原告および関係者氏名の記載については、当訴訟事案が公式判例集に登載された事件であるばかりでなく、さまざまな文献等(一般に市販されているものも含む)により周知の事実となっている経緯から伏せていない。
- ^ 着任当時「山梨権令」、明治7年(1874年)10月より「県令」、明治19年、職名の改称により「知事」。
- ^ これらのスイッチバックは今日ではすべて解消されている。
- ^ なぜ比較的平坦な釜無川沿いのルート(現国道20号沿い)ではなく、急勾配となる七里岩台地上のルートが選定されたのか、理由は明らかでない。釜無川沿いに敷設した場合、甲斐駒ケ岳から流れ下る渓流が非常に多く、橋梁を多数建設する必要があった為であるとか、県境を越えた所にある甲州街道蔦木宿が鉄道敷設を反対した等諸説あるが、実際の理由は不明である[15]。
- ^ 信玄公旗掛松の具体的な樹種(アカマツ、クロマツ等)については、渉猟した文献中に記載はなく不明である。
- ^ 当初の社名は「甲武馬車鉄道」、明治21年(1889年)に「甲武鉄道」に改称[21]。
- ^ 1975年(昭和50年)の日本国有鉄道総裁室法務課による、「信玄公旗掛松訴訟事件に関する調査記録」法務情報141号1頁以下が存在する。ただし、これは国鉄に勤務していた江川義治による個人的関心から作成されたものであり、かつ社内誌という一般の目に触れにくいものである[32]。
- ^ 日本弁護士連合会編・『弁護士百年』、1976年(昭和51年)2月10日発行、71ページでは、藤巻嘉一郎の写真とともに「公害民事事件の先駆」、「信玄笠〔ママ〕掛松事件を一人でやった甲府の弁護士」として紹介されている[56]。
- ^ 清水倫茂が藤巻嘉一郎へ弁護を依頼した具体的な経緯は渉猟した文献中に記載はなく不明である。
- ^ 欠席判決-コトバンク 2020年8月4日閲覧。
- ^ 引用中のアンダーラインは(川井 1981)での記載に倣った。
- ^ 碑文の一部に、組み合わせられた漢字による変換不能文字が含まれるため、ここでの表記は長坂町郷土資料館編集『旗かけ松の本』(2001年)、p.15での表記に倣った。実際の表記は添付した画像を参照のこと。
出典
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- 1 信玄公旗掛松事件とは
- 2 信玄公旗掛松事件の概要
- 3 裁判の経過
- 4 権利濫用論に与えた影響
- 5 信玄公旗掛松碑
- 6 年表
- 7 脚注
- 信玄公旗掛松事件のページへのリンク