人種的差別撤廃提案 人種的差別撤廃提案の概要

人種的差別撤廃提案

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 13:53 UTC 版)

国際連盟委員会。前列左から珍田捨巳日本駐英大使)、牧野伸顕(日本元外相)、レオン・ブルジョワフランス元首相)、ロバート・セシルイギリス元封鎖相)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドイタリア王国首相)、 エピタシオ・ペソア英語版ブラジル上院議員、後に大統領)、エレフテリオス・ヴェニゼロスギリシャ王国首相)。後列にはエドワード・ハウス(アメリカ、左から3人目)、ロマン・ドモフスキ英語版ポーランド、左から5人目)、ヤン・スマッツ南アフリカ連邦国防相、左から8人目)、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領、左から9人目)、カレル・クラマーシュチェコスロバキア首相、左から10人目)、顧維鈞中華民国駐米公使、左から12人目)、など

提案策定

日本政府内において誰がいつ最初に人種差別撤廃に関する提案を行ったかは現在も明らかになっていないが[1]、その背景の一つとして、当時アメリカ合衆国カナダ等で問題となった日系移民排斥問題がある。外務次官幣原喜重郎は人種差別撤廃提案により排日問題解決のきっかけを作ろうとしていた[2]。また、外交調査会伊東巳代治に代表される、国際連盟で多数を占めるであろう「『白人』人種」の国が人種的偏見により「帝国の発展」を阻害する動きに出るのではないかという危惧もあった[3]

1918年(大正7年)11月13日の外交調査会において、内田康哉外相が講和会議に対する外務省意見案を発表したが、その中の国際連盟問題の項目で「人種的偏見の除去」が講和後に設立される国際連盟参加の条件であると述べている[4]。この意見案は大筋で外交調査会に承認され、日本全権の正式な方針となった。全権の一人である牧野伸顕元外相は、人種差別撤廃提案の実現よりも連盟設立に際して諸外国に積極的に協力するべきと考えていたが、この意見には伊東が強く反発した[5]

提案内示と講和会議

牧野伸顕

1919年(大正8年)1月14日、パリに到着した日本全権団は人種差別撤廃提案成立のため、各国と交渉を開始した。1月26日に珍田捨巳駐英大使はアメリカのロバート・ランシング国務長官と面会し、ランシングが提案に肯定的であるという印象を得た。2月4日にはウィルソンの友人であるエドワード・ハウス名誉大佐に、連盟規約に挿入するべき文章として、「甲案」と「乙案」の二つの案を内示した。ハウスはこのうち乙案に賛意を示し、ウィルソンも賛成するであろうと述べた。翌日ハウスとウィルソンが会談し、日本側に人種差別撤廃提案を連盟規約に挿入することを大統領提案として提出するつもりであると伝達した[6]。「最大の障害」であると見られていたアメリカとの調整が成功し、日本側は提案成立に大きな自信を得た。

ところが、三大国の一つであるイギリスとの交渉は難航した。イギリス帝国内の自治領であるオーストラリアカナダがこの提案に強く反対しており、日本が直接交渉を行っても妥協は成立しなかった。オーストラリアは白豪主義体制を国是としていただけでなく、労働問題が目下の課題となっていた。さらに選挙が目前に迫っていたこともあり、この提案は受け入れがたいものであった[7]。イギリス全権のロバート・セシル元封鎖相、アーサー・バルフォア外相は個人的には日本の立場に賛成するとしたものの、問題が重大であり、人種差別撤廃という問題を連盟規約で扱うのは妥当ではないと回答した[8]。バルフォアは説得に訪れたハウスに対し、「ある特定の国において、人々の平等というのはありえるが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と述べている[9]

講和会議において日本代表は自国の利害が絡む山東問題・南洋諸島問題以外ほとんど積極的な発言を行わず、「サイレント・パートナー」と揶揄された。ウィルソン大統領の悲願であった国際連盟設立に関しても、内田康哉外相が「本件具体的案ノ議定ハ成ルヘク之ヲ延期セシメルニ努メ」ると言ったように消極的態度に終始し、各国の失望を買った[10]。特に1月22日の五大国会議で牧野が連盟設立に関して意見を留保したことはウィルソンやデビッド・ロイド・ジョージイギリス首相の不興を買った[11]。提案の採択は極めて難しいと見られていたが、日本側は「正否はともかく、この際本問題に関する我主張を鮮明することは将来のため極めて緊要」という判断から、提案を行うことになった[8]

最初の提案

2月13日、国際連盟委員会において、牧野は連盟規約第二一条の宗教の自由についての規定の後に「各国民均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速に連盟員たる国家に於ける一切の外国人に対し如何なる点に付ても均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或は事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を追加するよう提案した[12]。牧野は人種・宗教の怨恨が戦争の原因となっており、恒久平和の実現のためにはこの提案が必要であると主張した。また、この提案によって即座に各国における人種差別政策撤廃が行われるわけではなく、その運用は国家の為政者の手にまかされると述べた[13]。牧野の提案は、「黄色人種に対する人種的偏見のために、日本が不利に陥ることのないようにせよ」とする本国からの訓令を解釈したものであった。

ベルギー代表は日本案の条文に反対し、ブラジルルーマニアチェコスロバキアの代表が日本の主張に理解を示す発言を行い、中華民国代表は本国の訓令を待つとして意見を保留した[14]。その後「宗教に関する規定」そのものを削除するべきという意見が多数となった結果、第二一条自体が削除された。牧野は人種差別撤廃提案自体は後日の会議で提案すると述べ、次の機会を待つこととなった。

この提案は日本を含んだ海外でも報道され、様々な反響を呼ぶことになる。牧野は西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア人[注釈 1]やアイルランド人[注釈 2]などから人種的差別撤廃提案に感謝の言葉を受けた[15]。また米国内からも、全米黒人地位向上協会 (NAACP) が感謝のコメントを発表した[16]。また代表団の中でもハウスは好意的であり、デビッド・ミラー英語版に実際に人種平等条項を起草するよう指示している。しかしミラーはこの条項が原則の提示に過ぎず、法的効果を持たないため、無意味な条項であると指摘している[17]

2月14日アメリカに一時帰国したウィルソンは、「人種差別撤廃提案」が国内法の改正に言及しており、内政干渉に当たるという国内の強い批判に直面することとなった。アメリカ合衆国上院では「人種差別撤廃提案」が採択された際には、アメリカは国際連盟に参加しないという決議が行われており、ウィルソンもこの反対を抑えることはできなかった[18]。 3月14日、牧野はオーストラリアのビリー・ヒューズ首相と会談したが、ヒューズ首相は国内事情から賛成できないと述べ、その後のイギリス帝国各国代表を交えた会議でも強硬に反対した[19]。イギリス・ニュージーランド・カナダは牧野の説得で賛成に傾きつつあったが、ヒューズの強硬な態度はこれらの国も反対に回帰させていった[20]

日本政府も提案の成立が困難であると見るようになり、最悪の場合は議事録に記録することで日本の立場を明らかにするように訓令を行った[21]。外交調査会の伊東や犬養毅は、提案が実現しなければ最悪国際連盟不参加を決めるべきと強硬であった[22]


注釈

  1. ^ 1919年当時のリベリアはエチオピアと共にアフリカの黒人国家として数少ない独立国の1つであった。
  2. ^ 1919年当時のアイルランドはイギリスに統治されていた。アイルランドが独立したのは3年後の1922年である。
  3. ^ 日本、中華民国、ブラジルのみが賛成したとしている。

出典

  1. ^ 永田幸久 2003, pp. 194.
  2. ^ 永田幸久 2003, pp. 201.
  3. ^ 永田幸久 2003, pp. 201–202.
  4. ^ 永田幸久 2003, pp. 193–194.
  5. ^ 永田幸久 2003, pp. 197.
  6. ^ 永田幸久 2003, pp. 204.
  7. ^ 永田幸久 2003, pp. 204–205.
  8. ^ a b 永田幸久 2003, pp. 205.
  9. ^ 篠原初枝 2010, pp. 67.
  10. ^ 永田幸久 2003, pp. 198–199.
  11. ^ 永田幸久 2003, pp. 200.
  12. ^ 『近代日本の転機 明治大正編』鳥海靖編、吉川弘文館、2007年、254、255頁。
  13. ^ 永田幸久 2003, pp. 206.
  14. ^ a b 巴里講和会議ニ於ケル人種差別撤廃問題一件 1919, pp. 510–511.
  15. ^ 牧野伸顕「回顧録」
  16. ^ レジナルド カーニー「20世紀の日本人―アメリカ黒人の日本人観 1900‐1945」五月書房1995
  17. ^ 篠原初枝 2010, pp. 68.
  18. ^ 永田幸久 2003, pp. 207.
  19. ^ 永田幸久 2003, pp. 207–208.
  20. ^ 永田幸久 2003, pp. 208.
  21. ^ 永田幸久 2003, pp. 208–209.
  22. ^ 永田幸久 2003, pp. 210.
  23. ^ 『近代日本の転機 明治大正編』鳥海靖編、吉川弘文館、2007年、258頁。
  24. ^ 永田幸久 2003, pp. 211.
  25. ^ a b c 巴里講和会議ニ於ケル人種差別撤廃問題一件 1919, pp. 498–499.
  26. ^ p219 憲政の政治学
  27. ^ 外務省記録「人種差別撤廃」、『日本外交文書』大正7年第三冊および大正8年第三冊上巻
  28. ^ a b c 永田幸久 2003, pp. 212.
  29. ^ p144 国家と人種偏見
  30. ^ 篠原初枝 2010, pp. 69.
  31. ^ 巴里講和会議ニ於ケル人種差別撤廃問題一件 1919, pp. 508.
  32. ^ 鹿島守之助『日本外交史12』鹿島研究所出版会(1971年)187頁の記述でも同様。(八丁由比 2011, pp. 19)
  33. ^ 永田幸久 2003, pp. 213–214.
  34. ^ Macmillan, Margaret Paris 1919: Six Months That Changed the World, New York: Random House, 2007 page 317-487
  35. ^ 篠原初枝 2010, pp. 71.
  36. ^ 河合敦 (2023-3-16). “真説!日本史傑物伝”. アサヒ芸能: 78-79. 
  37. ^ 寺崎英成 & マリコ・テラサキ・ミラー 1995, pp. 24–25
  38. ^ 河辺一郎『国連と日本』岩波書店、1994年1月20日。 
  39. ^ 永田幸久 2003, pp. 220.
  40. ^ p147 国家と人種偏見
  41. ^ a b c d p151-152 国家と人種偏見


「人種的差別撤廃提案」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「人種的差別撤廃提案」の関連用語

人種的差別撤廃提案のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



人種的差別撤廃提案のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの人種的差別撤廃提案 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS