ホロドモール 1932年

ホロドモール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 06:27 UTC 版)

1932年

政府は、輪作を導入せず、堆肥や肥料も入れず、種播面積を拡大させるばかりであったために、穀物の多くが病気になった[80]。1932年のウクライナ、北カフカーズでは、除草労働も悪化し、雑草が重圧となった[80]。家畜減少による索引力の低下によって、北カフカーズでは通常は春蒔きは一週間程度なのに、1932年には30日-45日に長引いた[80]

1932年2月13日、ソビエト労働防衛委員会ロシア語版英語版 (STO) の下に徴発委員会が設立された。 2月21日、「新収穫の種を契約する」という指令が出された[78]

1932年の飢饉では、収穫の取り入れでの損失もひどく、1931年の取り入れでの損失が1500万プードであったのに対して(総生産量の20%)、1932年の損失は、ウクライナでは1億-2億プード、ヴォルガ流域では7200万プード(総生産量の35.6%)に達し、収穫の半分以上が耕地に取り残された[80]

コルホーズからの大規模な脱退のピークは1932年の前半で、ロシアで137万800人、ウクライナで4万1200人のコルホーズ員が減少した[80]。1932年春夏にウクライナ農民がコルホーズから大規模に逃亡したことは、スターリン政権の政策が厳格化した原因ともなっていった[83]

飢饉の報告とソ連政府の対応

ラーザリ・カガノーヴィチウクライナ共産党第一書記(1925-28年)、ソビエト連邦共産党中央委員会書記(1928-39年)
ヴャチェスラフ・モロトフ人民委員会議議長(首相)(在任1930-1941年)

1932年春にはすでに飢饉が発生しており、ウクライナ農民には一人当たり約113kgの穀物しか残っていなかった[76]。ウクライナ共産党員も餓死の報告と飢饉の危険を訴え、ソ連当局にも飢饉の報告はあがっており、6月にはハルキウのすべての地区での餓死が報告された[79]

飢饉が報告されると、党中央と地方指導部との間での責任転嫁も起こった。スターリンは1932年はじめには、ウクライナでの食糧危機の原因の責任は地方指導部にあり、地方指導部が工業ギガントに熱中するあまり穀物調達計画を地区とコルホーズに均等に割り当てたためだと考えていたが、ゲ・イ・ペトロフスキーらウクライナの指導者らは、飢饉の責任は党中央にあるとした[83]

5月にはソ連人民委員会議、党中央委員会は、穀物と食肉の国家調達目標を削減し、調達を完遂した場合は穀物の自由な商業や、納入を完遂した場合は食肉の自由な商業を許可した[80]。しかし、コルホーズには販売する穀物が残されていなかった。[80]

6月に、ウクライナのコルホーズ員が逃亡し、「泣き言と愚痴で」他のコルホーズを崩壊させているとの通報を受けたスターリンは、農民の抵抗を砕こうとする志向を強め、「農民の狡猾さの予防を図る」ためにと農民政策を厳しくした。[83]。同時期に日本が満州に進出し(満洲事変)、ドイツではヒトラーがソ連で飢えているドイツ人の援助を訴えたことは、スターリンの不動の断固たる態度を強めた[83]

6月18日のソチ発カガノーヴィチ、モロトフ宛指令では、穀物調達目標を低めることを禁じた[83]。6月21日に、スターリンとモロトフ人民委員会議議長(首相)は、ウクライナ共産党に宛てて「穀物提出の計画からのいかなる逸脱も許さない」と通達した[3]。共産党新聞プラウダは、ウクライナへの不満をしきりに報じ、7月にはスターリンがふたたび770万トンの供出を命じた[76]

同7月のウクライナ共産党の第3回大会でミコラ・スクリプニク英語版チュバーリコシオールらは苛酷な徴発がウクライナ農業を破壊しているため、穀物徴発計画の見直しを党中央本部に上申したが、無視されたり、またそのような党に逆らう意見は「ブルジョワ的偏向」だとして断罪された[7][76]。モロトフは未来に対する計画を非難することは「反ボルシェビキ的」で、「党と政府が決めた仕事を完遂することになんの譲歩も、なんの躊躇もあってはならない」と反論した[84][76]。ウクライナ共産党のR.テレコフが1932年にハリコフの惨状を訴えると、スターリンは「飢饉の作り話をするなら作家になれ」と回答した[7][85]

スターリンは非公式に飢饉を認めたともされるが、計画通りに穀物の徴発を続けるよう命じた[79][注釈 15]

スターリン、モロトフ、カガノーヴィチらは、飢饉の原因について以前はクラークが穀物を隠していたためと説明してきたが、ウクライナでの飢饉の原因はウクライナ人にあると主張した[86]。スターリンは飢饉の原因は農業集団化政策でなく、ウクライナの農民が「めそめそ泣いて」ソビエト国民を混乱させていると不満を述べた[79]うえで、カガノーヴィチ、モロトフなどの忠実な盟友に「ウクライナの不穏分子を叩き潰せ」と命じた[79]。1932年7月ハルキウでのウクライナ共産党中央委員会総会における現地の飢饉の報告に対して、カガノーヴィチとモロトフらモスクワ特使たちは報告者を黙らせた[79]。他方、8月11日にスターリンは、カガノヴィッチに「われわれはウクライナを失うかもしれない」とも吐露した[3]

スターリンは、飢饉をウクライナの民族主義者によるものとみなし、1932年前半にウクライナOGPUは179人を摘発し、562人の参加者のいる35のグループを一掃した[83]

1932年夏にはカザフスタンでも100万人が餓死し[79]、耕地からの穀物の窃盗が頻発し、農民の都市への移住、大規模な離村が広がり、コルホーズも解散されていった[80]。こうした現象をOGPUはコルホーズ財産の持ち去りとして報告した[80]。農民は共同給食が保証されなければ農作業しないと拒否し、1932年前半には1525件の大規模な騒擾も発生した[80][注釈 16]

社会主義財産保護法

1932年8月7日にはスターリンが法案を執筆した「国営企業、コルホーズ、協同組合の財産保護、および社会的(社会主義的)所有権の強化について」が布告された[87]。この社会主義的財産保護法(コルホーズ財産保全法)によって、コルホーズの農産物はすべて国家の財産(社会主義的財産)であるため、許可を得ずにこれを窃盗した場合は、「人民の敵」とされ[87]、全財産没収をともなう死刑、または10年以上の自由剥奪となり[88][7][6]、子供でさえ射殺または投獄される可能性があるとされた[89]。収穫された穀物は「社会主義の財産」とみなされ[88]、食料の備蓄なども「窃盗」とみなされた[7][6]。この法は「5本の穂の法」(英語:Five Stalks of Grain)とも呼ばれた[90][89]。スターリンは1933年1月にはこの法をもって「革命の法的基礎」にすると述べた[87]。1933年初めには、この法によって、約54,645人が裁判で刑を宣告され、うち2,000人が処刑された[89]

地方権力は社会主義的財産保護法によって銃殺された農民のリストを公表し、見せしめとした[80]。ウクライナ、クバン、沿ヴォルガでは、成績の悪い農民を公表する「黒板」が設置され、成績優秀者は「赤板」に掲示された[91]。「黒板」では、農場や村だけでなく、地区全体が指定されることもあり、商店や製粉所の閉鎖や、付属地の没収などの措置が適用された。穀物供出の義務を果たせなかった集団農場は、工業製品の購買が禁止された[91]

ウクライナの共産党新聞では「組織的に穀物を掠め取った富農たち」の処刑記事を次々に掲載し、ハリコフ州では50件が、オデッサ州では3つの事件が報道されたが、そのほとんどが小麦窃盗事件だった[87]。コパニ村では富農と準富農の集団が倉庫に穴をあけて、小麦を盗んだために二人が銃殺となり、ジトーミル州では10歳の少女が畑で10kgの小麦を持っていたために、その父が銃殺された[87]。ジャガイモの盗みで10年の刑が下された[87]

1932年中頃、ウクライナ農民300万人が都市への移動をはじめ、外国の共産党員は「彼らはパンとじゃがいもが欲しいだけ。」「人々はいたるところで盗んでいる。」と非難した[92]。農民は都市へ出たあと装飾品や絨毯などと食糧を交換した[92]

1932年8月、スーミ州のミハイリフカ村では、コルホーズ議長が農民の同意なしに穀物を供出できないと述べたために逮捕された[87]。翌日、暴動が起きて議長の釈放や割り当て減額などが要求されたが、67人が逮捕されて有罪となり、議長ら数人が銃殺された[87]。村の役人が飢えた農民に食糧を与えると、「食糧の浪費だった」と党は報告した[76]

1932年10月12日、OGPU長官代理のA.アクゥーロフロシア語版英語版M・M・ハタエーヴィチロシア語版英語版が二度目の徴発を行った[76]

ポルタヴァ州のカルシン村では妊娠中の女性が小麦を引き抜いたために板で打たれ、死亡した[93][94]。ビリスケ村では、夜中コルホーズのじゃがいもを掘っていた母親が射殺され、残された三人の子供は餓死した[95][94]。別の村では、とうもろこしを拾った者が鞭で打たれて死んだ[96] [94]。また、ある活動分子は農民の家宅捜索で樹皮や木の葉を小麦にまぜた袋を見つけると、池に投げ捨てた[96][94]。墓地には、遺体だけでなく、瀕死のものも放置され、数日生存していたこともあった[96][94]。スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は、食料調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられ、男性は白海・バルト海運河建設へ、女性はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされた[要出典]

他方で、共産党員や活動分子などは食糧の割り当てもよく、ポグレビーシチャでは共産党官僚のための食堂ではパン、肉、フルーツ、菓子、珍味などが供され、飢えた農民が侵入しないように警察が護衛した[94]。また、農婦たちは、共産党員の官吏相手に売春をして食糧を得た[94]

共産党青年団・少年団による徴発と弾圧

農民からの徴発には、15歳から35歳の若者で組織されたコムソモール(共産主義青年団)や、10歳から15歳までの児童で組織されたピオネール(共産党少年団)が動員された。

都市から農村へ派遣された労働者や党メンバーから構成されたオルグ団は空中パトロールで畑を監視し、農場にはコムソモールのメンバーが見張りに送り込まれた。告発が奨励され、子供が肉親を告発して、食物や衣類やメダルが与えられた[97]。コルホーズ財産保全法が発効すると、ウクライナ各地の畑には監視塔が設置され、オデッサでは700の監視塔が設置された[6]

当時、コムソモール共産党への奉仕組織であり、汚職を告発するスパイ密告者の養成機関でもあった[98]。コムソモールはかたっぱしから農家を捜索し、穀粒にいたるまで持っていき、調理中の夕食まで持っていった[6]。青年団の徴発部隊は、農民同士にボクシングや犬のまねをさせたり、盗みを働いたとされた女性を裸にして村中を引き回した[6]。徴発部隊は、ひとり暮らしの女性の住居に「穀物徴発」の名目で夜間に侵入し、強姦した[6]。こうした農民への虐待は、革命的かつ進歩的な「人民の敵」との戦争(階級闘争)であるとして正当化された。コムソモールでは、家族への愛情よりも、革命への忠誠心が優先され、親や教師のなかに紛れ込む「階級の敵」の摘発が義務とされ、大学や学校では「反革命派」を裁いた[98]。当時農家を「告発」していった若者たちは、1905年-1915年生まれの世代で、「革命」の英雄時代に対して極度にロマンチックなイメージを抱いており、ブルジョワ的な娯楽私有財産を徹底的に拒否し、個人の幸福にこだわることはとみなし、コムソモールメンバーであることは輝かしい社会貢献とみなされた[98]。この世代のチェーカーの一人は、父親の金物店を捜索し、その財産を押収した[98]

また、ピオネール(共産党少年団)の子供50万人も「共産党の目と耳」になることを命じられ、畑を監視し、穀物を盗むクラークと戦っているとされた[14][注釈 17]。ピオネールは、二、三個のとうもろこしを拾った女性を逮捕して極北の強制収容所に収容し、クゥバーニ川のウスト・ラビンスクのコルホーズでは、盗みの疑いのあるクラーク住民のリストを報告するなど、各地でクラークを逮捕し、そのたびに表彰された[97]。少年パブリク・モローゾフは、ゲラシーモフカ村の村ソヴィエト議長の父をクラークとして告発し、父親は労働収容所に送られた。パブリクは叔父たちに殺害されたが、死後英雄として表彰された[99]。1934年には、穀物を隠し持っている親を通報した児童が続々と表彰された[97]

しかし、こうした徴発を強化しても、収穫高があがることはなかった。1932年10月には、スターリンに忠実なモロトフでさえ、割り当てを減らすよう進言した[6]

スターリン夫人自殺事件以後の徴発強化

1932年11月9日にスターリン夫人アリルーエワが自殺すると、スターリンはいっそう悪意を強め、サボタージュが疑われた集団農場の職員1623人が逮捕され、年末までにウクライナ人3万400人が流刑地に送られた[6]。スターリンは集団化による飢饉は「作り話」で「悪意ある噂」であるとみなし、飢え死にしかけている農民は、ソ連の信用失墜をもくろむ資本主義国の手先であるとした。[6]

11月18日、ウクライナ農民に、余剰穀物の「返還」が求められ、共産党の徴発部隊と警察が熱心に捜索した[6]。11月20日には、割当量を納められなかった農民は肉(家畜)で支払うことを義務づけられた[6]

11月27日、スターリンはこの一年の穀物調達の困難の原因は、反ソ分子がコルホーズやソフホーズに侵入し、村の共産主義者が非マルクス主義的な対応をしたためだと非難し[100]、徴発に抵抗しつづける農民に鉄槌を打つことを命じた[3]。同日、ソ連国内で未収となっている穀物の3分の1が、ウクライナに割り当てられた[6]。翌11月28日、ソ連はブラックリストを導入し、割当量を納められなかった集団農場は15倍の分量の即時納入を義務づけられた[6]

共産党新聞プラウダは12月4日と8日にクラークとの断固とした戦いを要求した[100]。12月5日に、フセヴォロド・バリツキー英語版内務人民委員部ウクライナ支局長の進言で、ウクライナ飢饉は民族主義者による陰謀であるとされ、徴発で責任を果たさなかったものは国家に対する裏切り者とされた[6]。翌1933年1月までにバリツキーは、違法組織を1000以上発見したと報告した。農民をかばった者は敵とみなされ、有罪判決を受けた。

12月6日、ウクライナソビエト政府は、ドニエプロペトロフスク州、ハリコフ州、オデッサ州で穀物徴発にサボタージュした村に対して、物資供給の停止、国家との取引停止、コルホーズの取引の完全禁止、外国人と敵対分子の調査と追放、そして反革命分子の粛清などの制裁を課した[92]。12月14日には、ウクライナ共産党に潜む民族主義者を強制収容所に送ることが許可され[6]、翌12月15日、ドニエプロペトロフスク州、ドニエツ州、チェルニーギフ州、ハリコフ州、オデッサ州の88地区の住民はソ連北部に強制移住に処された[92]

12月下旬、ウクライナの死亡者数は数十万人に達した[6]。しかし、スターリンは動じることなく、12月21日に徴発量の年間割り当て量を決定し、翌1933年1月までに徴発するよう命じた[6]カガノーヴィチがウクライナに到着すると、翌朝までの会議で徴発目標の達成決議が出された[6][注釈 18]

12月27日、中央執行委員会は都市住民にパスポートを義務化した[78]。これは、農民の都市への流出を抑制させて都市の負担を軽減すること、そしてクラークによる犯罪の撲滅を目的とした[78]。この国内パスポート制度は、比類なき国家全体主義をもたらし、新しい農奴制の基盤を提供し、農民達は農奴さながらに村や集団農場に縛りつけられたた[78]。 無許可で農村を去った農民は「富農」であるとされた[78]

1932年末、クバンのコサック村では、調達をサボタージュしたかどでまるごと追放された[80]


注釈

  1. ^ ロシア語でголод (golod)[1]
  2. ^ moryty(殺す、飢えさせる、枯渇させる)とも[1]
  3. ^ 作家のオレクサ・ムジエンコ(Oleksa Musienko)がキーウのウクライナ国立作家同盟ウクライナ語版での1988年2月18日での Literaturna Ukraïna 報告で最初に使用したとされる[1]
  4. ^ Oleh Wolowynaらの研究では1934年にも飢饉の影響による損害があったことがわかっている[4]
  5. ^ なお、ソビエトはフィンランドの分離独立を認めている(12月31日)[19]
  6. ^ ソ連の学者T.ウルラーニスは、ロシア内戦でポーランド人、フィンランド人含めて30万人が犠牲となったとする[35]
  7. ^ 1918-1920年の900万死亡から疫病による死者200万、内戦で被害100万を引いで、600万[35]
  8. ^ 1927年秋に、農民たちは農産物を安く買い叩かれるため、国への販売をしぶった。
  9. ^ 1932-37年ウクライナ共産党政治局員だった
  10. ^ 1931年には両地域の収穫量は全ソ連の45-46%をなした[3]
  11. ^ 公式データでは8354万トン
  12. ^ 1928年は総収穫量の20-25%
  13. ^ 集団農場では、翌年の収穫用に穀物種子を備蓄していた[3]
  14. ^ たとえばヴォルガ下流では集団化開始までは馬一頭あたり10ヘクタールであったのが、32年春には23ヘクタールとなった[80]
  15. ^ ロシア内戦の際、1921年にウクライナでは何十万人が餓死したことをスターリンは知っていたので、飢饉を回避する考えはスターリンになかったとティモシー・スナイダーはいう[79]
  16. ^ ソ連の農村では1932年1月から3月までに576件、4月から6月にかけては949件の蜂起が起きた[80]
  17. ^ ポーストィシェフは、畑での監視には児童が50万人動員され、1万人の児童が、盗む農民(クラーク)と戦っていると党中央に報告した[97]
  18. ^ これは、ウクライナの300万人への死刑宣告を意味した[6]
  19. ^ 国内身分証明書(パスポート)制度は、帝政ロシアで監視のために実施されていたもので、革命運動において移動の自由は重要な要求となり、国内パスポート制度はロシア革命で廃止された[101]
  20. ^ 農民以外でも、かつての資本家や元貴族などの公民権を剥奪された人々にもパスポートは公布されなかった[102]
  21. ^ コルホーズ農民にパスポートが交付されたのは1974年ブレジネフ時代になってからだった[103]
  22. ^ 2月末までに19万人が逮捕されたとする説もある[6]
  23. ^ 飢餓状態の者が栄養を急に摂取すると水、電解質分布の異常、心合併症などを引き起こす病態をリフィーディング症候群という。「極度の低栄養状態における低血糖に伴うリフィーディング症候群」(JSPEN Vol. 2(2):2020)
  24. ^ およびアディゲ共和国カラチャイ・チェルケス共和国なども含む。
  25. ^ シュキリャートフは1950年頃のレニングラード事件でも粛清を実施した。
  26. ^ モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国 (モルダヴィアASSR)は1924年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国に建国され、現在のウクライナの一部と沿ドニエストル共和国の領土にあたる。1940年にモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルダヴィアSSR)に編入された。1926年の人口構成ではモルドバ人(30%)よりもウクライナ人(49%)の方が多勢であった。
  27. ^ カンボジアのジェノサイドの研究者ベン・キーアナン (Ben Kiernan) は、社会的基準と民族的基準は簡単には区別できず、カンボジアのジェノサイドには多くの民族的要素があるとする[173]
  28. ^ ネイマークは「スターリンにはクラークをただ比喩的な階級としてだけではなく、国民の一集団として物理的に抹殺する意図があった。」という[174]
  29. ^ レナルト・メリの従兄アルノルト・メリ英語版は、赤軍に従軍していた1949年にヒーウマー島の住民251人をシベリアに強制移住させ、うち43人が移住先で死んだ事件の責任を問われ、2008年に裁判が開始。しかし、翌2009年にアルノルトは死亡した[173]

出典

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