ヘンリー・キッシンジャー
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ヘンリー・キッシンジャー Henry Kissinger | |
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1973年公式肖像 | |
生年月日 | 1923年5月27日 |
出生地 |
ドイツ国 バイエルン州フュルト |
没年月日 | 2023年11月29日(100歳没) |
死没地 | アメリカ合衆国コネチカット州 |
出身校 |
ニューヨーク市立大学シティカレッジ ハーバード大学大学院博士課程(外交史) |
前職 |
外交官 国際政治学者 |
所属政党 | 共和党 |
配偶者 |
アン・フライシャー(1949年 - 1964年) ナンシー・マギネス(1974年 - 2023年) |
サイン | |
在任期間 | 1973年9月22日 - 1977年1月20日 |
大統領 |
リチャード・ニクソン ジェラルド・フォード |
在任期間 | 1969年1月20日 - 1975年11月3日 |
大統領 |
リチャード・ニクソン ジェラルド・フォード |
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ドイツでヴァイマル共和政時代の1923年に生まれ、ナチス政権のユダヤ人迫害から逃れて1938年に米国へ移住[2]。第二次世界大戦中の1943年に米国籍を得て、従軍して故郷ドイツへ渡った[2]。帰国後の1947年にハーバード大学に入って国際政治学の博士号を取得し[2]、教授として働いた。
彼の政治キャリアは、ニクソン政権で1969年に国家安全保障問題担当補佐官として始まった[2]。ウォーターゲート事件によりニクソンが1974年に大統領を辞任し、副大統領から昇格した、同じ共和党のフォード大統領の下でも政権に留まった[2]。民主党のジミー・カーター大統領就任(1977年)に伴い政府の要職を退いたが、その後も晩年まで外交について活発な発言や大統領への助言、著述を続けた。
キッシンジャーは、リアリズム(現実主義)に基づく外交政策の擁護者として知られている。彼の外交政策は、アメリカの国益と力の均衡を重視し、理想主義よりも現実主義を優先することで知られている。彼の政策はしばしば論争の的となり、戦火の拡大や人権侵害を招いたとして、ベトナム戦争のカンボジアへの拡大、チリ・クーデターとそれに伴い成立した軍事政権による弾圧(コンドル作戦)、インドネシアによる東ティモール侵攻を推進・容認したという批判がある[2]。
キッシンジャーは、1973年のノーベル平和賞を受賞したが、この受賞は当時から現在に至るまで物議を醸している。彼は現代の国際政治における重要な人物であり、その遺産は今日も多くの議論の対象となっている[3]。
- 1 ヘンリー・キッシンジャーとは
- 2 ヘンリー・キッシンジャーの概要
- 3 来歴
- 4 退任後
- 5 日本に関して
- 6 評価
- 7 家庭生活
- 8 キッシンジャーに関する作品
- 9 関連項目
固有名詞の分類
アメリカ合衆国国務長官 |
ジェームズ・F・バーンズ ジェームズ・モンロー ヘンリー・キッシンジャー ティモシー・ピカリング ヘンリー・スティムソン |
国際政治学者 |
フランシス・ビア 大畠英樹 ヘンリー・キッシンジャー トーマス・リッセ ロナン・パラン |
国際関係研究者 |
ウィリアム・A・キャラハン フランシス・ビア ヘンリー・キッシンジャー トーマス・リッセ 斎藤元秀 |
アメリカ合衆国の政治学者 |
ロバート・アート フランシス・ビア ヘンリー・キッシンジャー ロバート・ダール ブルース・ラセット |
アメリカ合衆国の歴史学者 |
アルフレッド・クロスビー ロバート・ブレナー ヘンリー・キッシンジャー ワイリー・サイファー アーサー・ハーツバーグ |
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