ビーチング・アックス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/13 14:09 UTC 版)
この報告書は、道路輸送の拡大で1950年代から鉄道輸送に大きな損失が発生し始めたことへの対策であった。1955年の鉄道近代化計画の実施後も根本的には改善せず、イギリス国鉄を悩ませ続けていた[1]。ビーチングは、大胆な措置が将来の損失拡大から鉄道を救う唯一の方策であると提案していた。
しかし、政府は報告書のうち投資よりも費用削減に多くの興味を示した。報告後10年間に4,000 マイル(6,400 キロメートル)を超える路線と3,000を超える駅が廃止され、鉄道網の路線長の25%と駅の50%が削減された。今日に至るまで、イギリスにおける鉄道ファンの団体や年配者、特に廃線に影響された地方の人々には、ビーチングの名は鉄道の大規模廃止や各駅停車の減便の代名詞となっている。
廃線の背景
ビーチング博士は鉄道の廃止とよく関連付けられているが、1960年代以前の時点に既に数多くの路線が廃止されていた。
19世紀の鉄道狂時代を中心に急成長したイギリスの鉄道網は、第一次世界大戦直前の1913年の時点で最長の23,440 マイル(37,504 キロメートル)到達した[2]。大戦後はバスや自動車、航空機など他の交通手段との競争に直面し始め、高頻度運転のバスや路面電車との競争に敗れた郊外の短距離路線が1920年代から1930年代にかけて小規模に廃止された。例としては1934年に旅客輸送を廃止したバーミンガムのハーボーン鉄道がある。1923年の鉄道会社4大グループ再編後は、競合複数社の並行する重複路線を中心に廃止され、1923年から1939年までの間に大部分にあたる合計1,264 マイル(2,022km)の路線で旅客輸送を廃止した[2]。
第二次世界大戦の勃発で鉄道は戦争の遂行に不可欠となり、輸送量は増加し小康状態を得た。戦争中に保守や新規の投資が抑制されたため、鉄道はかなり疲弊した状態にあった。イギリスの鉄道網は1948年に国有化された。
1950年代初期には鉄道の廃止が再開された。イギリス運輸委員会は1949年に、利用の少ない支線を廃止する権限を持った「支線委員会」 (Branch Lines Committee) を設置した。利用の少ない複数の小規模路線はこの時期に廃止された。しかしながら、1959年に廃止されたイースト・アングリアのミッドランド・アンド・グレート・ノーザン・ジョイント鉄道のように国土を横断する亜幹線の中にも廃止例があった。1948年から1962年までの間に合計3,318 マイル(5,309 キロメートル)の鉄道が廃止された[2]。
この時期には、鉄道開発協会 (Railway Development Association) が主導する廃止反対運動が起こり始めた。著名な参加者としては詩人のジョン・ベチェマンがいる[3]。
ビーチング報告書
1950年代初期、経済回復と燃料の配給制度の終了で、自動車が一般にも普及しトラックによる貨物輸送の拡大から、戦前と同様に、再び鉄道との競合が再開された。鉄道はこの状況に適応しようと苦闘した。周辺国に遅れを取ったイギリスの鉄道はこれを取り戻すべく、イギリス運輸委員会は1955年に近代化計画を発表し、蒸気機関車からディーゼル機関車や電気機関車への置き換えを提案した。この計画では12億4000万ポンド以上を投じて、旅客貨物の鉄道輸送の復権と、1962年までの黒字回復を見込んでいた[4]。近代化計画の多くは承認された。
鉄道の輸送量は1950年代にはほぼ安定していたが[5]、人件費の大幅増加も相まって収支は着実に悪化していった[3][5]。旅客・貨物運賃は、インフレを抑制し、また有権者の歓心を買うために、政府により繰り返し値上げが凍結された[3]。
結果として1955年までに収入は運営費をもはやカバーできなくなり、状況は着実に悪化していった。近代化資金は借入に頼り多くが浪費され、1960年代初期には鉄道は財務危機に陥った。営業損失は1960年には6800万ポンド、1961年には8700万ポンド、1962年には1億400万ポンドに達し、これは2005年の価値に換算すると10億ポンドに相当する[6]。イギリス運輸委員会はもはや借入金に対する利子の支払いも不能になり、財務問題の悪化に拍車をかけた。政府は耐え切れなくなって根本的な解決策を模索し始めた。
1960年代初期の時代の雰囲気に同調して、保守党のハロルド・マクミラン政権の運輸大臣は、道路建設会社の社長であるアーネスト・マープルズ (Ernest Marples) であった。在任中は利益相反を回避するために彼の所有する株の3分の2は妻に譲渡されていた[7][8]。マープルズは、交通の未来は道路にあり、鉄道はヴィクトリア朝の遺物であると考えていた。
議長のイヴァン・スティードフォード (Ivan Stedeford) にちなむスティードフォード委員会という名称で知られる諮問委員会が、イギリスの交通の状況について報告し助言を行うために設立された。この委員会には、当時インペリアル・ケミカル・インダストリーズの技術担当重役であったリチャード・ビーチングも参加していた。ビーチングは後の1963年に新設されたイギリス国鉄委員会の議長に指名された。スティードフォードとビーチングは、ビーチングの鉄道網を切り詰めるという提案について対立した。議会での質疑に関わらず、スティードフォードの報告は出版されず、ビーチング計画として知られることになる鉄道網の将来に関する提案が政府に採用され、鉄道網の3分の1を廃止し100万両に及ぶ貨車の3分の1を廃車することになった。
ビーチングは鉄道に公共性よりも営利性を求め、不採算の赤字地方路線の廃線で残る黒字路線による収支改善を見込んでいた。
ビーチング第1段階
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F8%2F8e%2FBeeching_axe_1_and_NUR_response.jpg%2F220px-Beeching_axe_1_and_NUR_response.jpg)
当時のイギリス国鉄議長のビーチングは、全鉄道路線の交通流動に関する検討を開始した。この検討は復活祭の2週間後、1962年4月23日の週に行われ、鉄道網の総合計距離の3割は全旅客・貨物の1パーセントしか輸送しておらず、また全体の半分の駅は収入の2%しか生み出していないと結論づけた[3]。
1963年3月27日の報告書「イギリス国鉄の再建」(The Reshaping of British Railways)[9] またはビーチング第1報告は、イギリスの18,000 マイル(29,000 キロメートル)に及ぶ鉄道のうち、主に地方の支線や国土横断線について6,000 マイル(9,700 キロメートル)の廃止を提案した。さらに、他の多くの鉄道路線も貨物専用とされ、存続する路線でも多くの利用の少ない駅については閉鎖されるべきとした。この報告は政府に受け入れられた。
当時、この議論を呼ぶ報告をマスメディアはビーチングの爆弾 (Beeching Bombshell) やビーチングの斧 (Beeching Axe) と称した。鉄道の廃止で公共交通機関を失う地方部などの地域からは抗議が寄せられた。政府は、輸送はバスでより安く代替可能で、廃止された鉄道の代わりにバスを運行すると約束した。
報告書の重要な部分として、イギリスの鉄道は主要幹線を電化すべきで、また時代遅れで不経済な車扱貨物輸送の代わりにコンテナ輸送の採用を提案していた。この中には、フレートライナーの開設やウェスト・コースト本線のクルー (Crewe) からグラスゴーまでの1974年の電化延伸のように、結果的に採用されたものもあった。さらに職員の勤務条件は次第に改善された。
年ごとの廃止路線
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F9%2F9b%2FRugby_Central_station_remains2.jpg%2F300px-Rugby_Central_station_remains2.jpg)
イギリス国鉄には1950年の時点で総延長約21,000 マイル(33,800 キロメートル)と約6,000駅があったが、1975年には延長12,000 マイル(19,300 キロメートル)と2,000駅にまで縮小した。それ以降はおおむね同じ規模を保っている。
不採算路線の廃止は、20世紀を通じて進められた。1950年代にはイギリス国鉄の支線委員会が大きな反対の見込まれない重複路線を廃止し、国有化からビーチング報告の発表までの間に、およそ3,000 マイル(4,800 キロメートル)の路線が既に廃止されていた[10]。しかし、報告の発表後、廃止は顕著に加速した。
年 | 廃止路線長 |
---|---|
1950年 | 150マイル (240 km) |
1951年 | 275マイル (443 km) |
1952年 | 300マイル (480 km) |
1953年 | 275マイル (443 km) |
1954年から1957年 | 500マイル (800 km) |
1958年 | 150マイル (240 km) |
1959年 | 350マイル (560 km) |
1960年 | 175マイル (282 km) |
1961年 | 150マイル (240 km) |
1962年 | 780マイル (1,260 km) |
ビーチング報告発表 | |
1963年 | 324マイル (521 km) |
1964年 | 1,058マイル (1,703 km) |
1965年 | 600マイル (970 km) |
1966年 | 750マイル (1,210 km) |
1967年 | 300マイル (480 km) |
1968年 | 400マイル (640 km) |
1969年 | 250マイル (400 km) |
1970年 | 275マイル (443 km) |
1971年 | 23マイル (37 km) |
1972年 | 50マイル (80 km) |
1973年 | 35マイル (56 km) |
1974年 | 0 マイル (0 km) |
存続した路線
対象線区の全てが廃止されたわけではなく、多くの路線が政治的な理由から存続した。例としてスコットランドのハイランド地方を通るファー・ノース線やウェスト・ハイランド線などは、ハイランド地方の強力なロビーの圧力が存続理由の1つとなった[2]。ハート・オブ・ウェールズ線は多数の与野党が伯仲する選挙区を通り、廃止実行の勇気が誰にもなく存続したといわれている[2][3]。
これに加えて、コーンウォールのタマー・ヴァレー線など、並行道路の未整備を理由に存続した路線もある。
ビーチングの斧と別の理由で後年廃止された路線もある。マンチェスターとシェフィールドを結ぶウッドヘッド線は、依存していた貨物輸送の衰退により1981年に廃止された。
ビーチング第2段階
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F6%2F62%2FBeeching2.svg%2F220px-Beeching2.svg.png)
1964年、ビーチング博士は2番目のあまり知られていない報告、最初の報告書よりさらに踏み込んだ「主要幹線ルートの開発」(The Development of the Major Railway Trunk Routes)[11] 、あるいはビーチング第2報告書と呼ばれる報告書を発表した。報告書では、大規模な投資を続行する価値があると考えられる路線を選定した。
この報告では、都市間ルートや都市近郊の重要な通勤路線以外の路線を全廃すべきとしていた。右の地図はこの報告が実行された場合の結果を示しており、鉄道網は7,000 マイル(11,260 キロメートル)に削減され、イギリスには骸骨のような路線網しか残らないことになる。国土のうちのある部分、ウェールズの大半、北部スコットランド、ヨークシャー、イースト・アングリア、南西イングランドにはほとんど鉄道が残らないことになった。
大規模投資対象外とされた主要路線
- イースト・コースト本線:ニューカッスル以北
- ノース・ウェールズ・コースト線:チェスター - ホーリーヘッド間
- ウェスト・ウェールズ線
- セトル - カーライル線
- カンブリアン・コースト線
- ウェスト・オブ・イングランド本線:レディング - トーントン (Taunton)間
- コーニッシュ本線:プリマス以西
- グレート・イースタン本線以外のイースト・アングリアの全ての路線
- パース、ダンディー、アバディーン以北およびウェスト・コースト本線以西のスコットランドの全ての路線
この報告は行きすぎとみなされ、労働党政権によって却下された。ビーチング博士は1965年に辞任した。路線の廃止に責任があるのは政治家であるにもかかわらず、ビーチング博士の名前は路線廃止の代名詞となった。
- ^ The Railways Archive :: Modernisation and Re-Equipment of British Railways
- ^ a b c d e f g h White, H.P. (1986) Forgotten Railways, ISBN 0-946537-13-5
- ^ a b c d e f g h i Henshaw, David (1994) The Great Railway Conspiracy, ISBN 0-948135-48-4
- ^ Wolmar, Christian (2005) On the wrong Line, ISBN 1-85410-998-7
- ^ a b The Great Vanishing Railway - timmonet.co.uk
- ^ “British Railways Board history”. The National Archives. 2008年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年11月25日閲覧。
- ^ UK public transport asset stripped to make way for death, pollution, stress and the profit that comes from a fixed market. Tearing up the Tracks
- ^ Other Marples Trading Companies
- ^ The Railways Archive :: The Reshaping of British Railways - Part 1: Report
- ^ Daniels, G. & Dench, L.A. (1975). Passengers No More. Shepperton: Ian Allan. ISBN 0-7110-0438-2
- ^ The Railways Archive :: The Development Of The Major Railway Trunk Routes
- ^ The Railways Archive :: Railway Finances - Report of a Committee chaired by Sir David Serpell KCB CMG OBE
- 1 ビーチング・アックスとは
- 2 ビーチング・アックスの概要
- 3 政策の変化
- 4 線路の合理化
- 5 路線の再開
- 6 脚注
- ビーチング・アックスのページへのリンク