ビーチング・アックス 政策の変化

ビーチング・アックス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/13 14:09 UTC 版)

政策の変化

1964年に政権を獲得した労働党のハロルド・ウィルソンは、鉄道廃止の中止を政権公約に掲げていた。しかし、労働党は政権に就くとすぐにこの公約を撤回して、1960年代末以前の前政権時代よりさらに速いペースで廃止は続行された。

1965年、バーバラ・キャッスル (Barbara Castle) が運輸大臣に指名された。彼女は将来予測で少なくとも11,000 マイル(17,700 キロメートル)の路線が必要と決定し、鉄道網はこの規模で安定すべきとした。

1960年代末に向けて、鉄道の廃線は、当初期待していた支出削減や鉄道網の収支欠損の改善の効果は薄く、今後も見込めないことが一層明白になってきた[2]。キャッスルはまた、その収支を償うことはできないが社会的に価値のある役割を果たす路線については、政府が補助すべきであると規定した。しかしながら、これを可能にする規定が1968年交通法(Transport Act 1968、第39章に3年間の補助金支給条項がある)に盛り込まれた時点で、この補助金の支給を受けたであろう多くの路線が既に廃止・撤去されており、この規定の効果を薄れさせた。結果的にはこの規定により多くの支線が廃止を免れた。

概観

鉄道路線廃止による支出削減と収支改善は失敗に終わった。鉄道網のほぼ3分の1が廃止され約3000万ポンドの支出を削減したが、1億ポンドを超える総損失が続いていた[3]。支線の廃止で機能していた幹線のフィーダー交通の機能が失われ、結果として幹線も含めて輸送量と収入が減少した。廃止支線の利用者は自宅から幹線の最寄駅で自動車を利用し列車に乗り換えると予測されたが、実際は自動車で最終目的地まで直行するようになった。貨物輸送も同様に貨物を戸口から戸口へ輸送する能力を大幅に失った。旅客の場合と同じくトラックが貨物を集めて最寄の駅まで運び、貨物列車で長距離を輸送し、再びトラックに積み替えられて目的地へ運ぶモデルが想定されていたが、高速道路網の発展とコンテナ化の進展、そして2箇所で貨物の積み替えを必要とすることによる純然たる経済コストの問題などにより、長距離の道路輸送は鉄道の代替手段として確立した。

廃止路線の多くは赤字額が大きくなく、例えばサンダーランド - ウェスト・ハートルプール (West Hartlepool) 間路線の運行費は1マイルあたりわずか291ポンドにすぎないなど[2]、地方路線の廃止による全体の赤字解消額は僅かであった。皮肉にも利用の非常に多い通勤路線が最大の損失を出していたが、ビーチングも通勤路線の廃止は政治的・現実的にも大問題であるという点は承知していた[2][3]

報告書発表の時点で複数の支線で採用例のあった、軽便鉄道の発想は、ビーチングには無視された。実際のところビーチング報告では、運営費や勤務体制などの一般的な経済性にはほとんど触れていなかった。例えば、マンスフィールド線にある駅のように、廃止された駅の多くは1日18時間駅員が配置されており、1日中係員が配置されている複数の旧式の信号扱所で制御された路線を、ビーチングも指摘したように、新しい気動車よりずっと費用の掛かる蒸気機関車による列車が運行されていた[3]。その後イギリス国鉄やその後継者は、ビーチングの斧で廃止を免れた利用の少ない路線、例えば基礎鉄道として存続したイプスウィッチからローストフト (Lowestoft) までの路線などでこの概念を適用して成功を収めている。

存続していれば後に重要幹線として活用されたであろうと見込まれた廃止路線もある。セトル・カーライル線は廃止の危機にあったが存続し、現在は客貨ともに史上最多の輸送量を記録している。2007年のCTRL開通までイギリスで最後に建設された幹線ルートであるグレート・セントラル本線英語版は、当時提案段階にあった英仏海峡トンネルとイングランド北部を結ぶルートとなることが意図されていた。イギリスの一般的な車両限界よりも広いヨーロッパ大陸の車両限界を採用し、また現代の高速鉄道と同じく踏切がなくカーブや勾配を極力小さく抑えた規格で建設されていた。路線は建設から60年後の1966年から1969年まで段階的に廃止され、その28年後に英仏海峡トンネルが開通した。英仏海峡トンネルとCTRLの開業後、北部イングランドとトンネルを結ぶ高速鉄道が議論されているが、グレート・セントラル本線の多くの区間は既に跡形もなくなっている。

バス代行の失敗

鉄道のバス転換政策も失敗に終わった。バス代行は多くが鉄道よりも遅く不便で、人々から大変不評であった[3]。さらに、多くの代行バスは単に廃止された駅を結ぶのみで、駅から離れた集落を考慮せず、その多くがわずか数年間で利用客の伸び悩みを理由に廃止された。結果として国土の大部分に公共交通空白地域が発生することになった。

ビーチングによる最終的な廃止

鉄道廃止後に自動車への依存が増えて、鉄道廃止による僅かな支出削減効果を渋滞と大気汚染による損失増大が上回り、鉄道廃止の効果の薄さが明確化し、世論も廃止への関心も薄れ、1970年代初期には廃止は終結した。1973年のオイルショックが、完全に石油に依存する道路交通にのみ頼ることの問題を浮き彫りにしたことで、大規模な鉄道の廃止は完全に終結した。

ビーチング・アックスによる最後の主要路線の廃止で、おそらくもっとも議論を呼んだものでもあるのが、1969年に廃止されたカーライル - ホーイック (Hawick) - エディンバラを結ぶ98 マイル(158 キロメートル)のウェイヴァリー・ルート英語版の廃止である。なお、この路線は2015年にその北部区間がボーダーズ・レールウェイとして復活している。

1970年代初頭以降は僅かな例外を除き路線を廃止する提案は人々から強い反対にあって計画は棚上げされた。こうした反対は、1960年代半ばから後半にかけての多くの路線が廃止された経験に起因していた。今日、イギリスの鉄道は世界中のほとんど全ての鉄道網と同様に、赤字で運行されていて補助金を必要としている。

構造物の撤去と土地の処分

環境面で利点の効果に加え、廃止路線の沿線人口は過去40年間で増加傾向にあり、廃止路線の再開の機運も高まっている。1963年の時点で旅客数が減少し、当時は渋滞の少なかった道路で自動車利用の増加で不採算化した路線でも、現在でなら収益を見込めるものがあり、また渋滞と大気汚染の減少、既存路線の混雑緩和の効果が望まれ、政府からの補助金を投入してでも運行する価値のある路線もある。

しかし、ビーチングの斧で廃止された路線は廃線敷を処分する方針としており、橋・切り通し・築堤は撤去、存続路線の廃止路線用構造物も解体または売却されたため、路線の再開は困難なものとなっている。アメリカのレールバンクの枠組みと似た方式で将来の再使用に備えて廃止路線の線路敷きを保存せずに、土地を完全に処分する方針には大きな批判がある。さらに、収入を全く生まないのに維持が必要な多くの残存構造物があり、路線廃止後も削減できなかった支出となっている。

サーペル報告

1980年代初頭、マーガレット・サッチャー政権下で、再びビーチング以来の廃止提案がなされた。1983年、ビーチング博士と共に働いていた公務員であるデービッド・サーペル (David Serpell) が、より多くの鉄道の廃止を提案したサーペル報告 (Serpell Report)[12] として知られることになる報告書をまとめた。この報告書には、発電所に運ぶ石炭の輸送量が多いミッドランド本線の廃止や、その通過している地域のために政治的に受け入れられないグレート・セントラル線のバス転換、バーウィック・アポン・ツウィード (Berwick-upon-Tweed) からエジンバラまでのイースト・コースト本線の廃止など、重大な問題点の存在が示された。多方面から強烈な反対を受け、信用性を失い、この報告書はすぐに放棄された。








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