ナイマン ナイマンの概要

ナイマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 01:29 UTC 版)

12世紀のモンゴル高原の諸部族

歴史

ナルクシュとイナンチャ

集史』「ナイマン部族誌」によると、チンギス・カンの勃興以前に、ナイマン王国ではその王位を兄のナルクシュ・タヤン・カンと弟のイナンチャ・カン(イナンチュ・ビルゲ・ブク・カン)とで争っていた。兄のナルクシュは一時「タヤン・カン(大王可汗)」としてナイマン王国を支配したが、彼の死後、弟のイナンチャはナルクシュの子カジル・カンの勢力を倒してナイマン王国を統一した。[2] また、同「ナイマン部族誌」によればナイマン部族を統べる君主のことを自ら「クシュルク・ハン」または「ブユルク・ハン」と呼んでいたという。「クシュルク・ハン(Kūshlūk Khān)」とは「力強く偉大なる君主(pādshāh-i qawī wa `aẓīm)」という意味で、「ブユルク・ハン(Būyurūq Khān)」とは「命令を与える者(farmān dihanda)」の意味であるという。

ナイマンは東にケレイト王国と隣接していたため、ケレイト王国の内紛に幾度か関わっている。イナンチュ・カンの時代、ケレイト王国ではトオリル・カン(後のオン・カン)が即位したが、親族たちを粛正したためトオリルの叔父グル・カンはナイマン王国のイナンチュのもとに亡命した。グル・カンはナイマンの軍事的援助によってトオリルを撃退してケレイト王位を襲い、トオリルは逆に東のモンゴル部族の有力王族イェスゲイ・バアトルのもとに亡命する事となった。トオリルはイェスゲイとアンダの契りを交わしその援助によって、グル・カンを打ち破って西夏に敗走させ、再びケレイト王位に復帰した。しかし、トオリルは復位すると弟たちなどを粛正し始めたため、ナイマン王国のもとに亡命したトオリルの弟の一人エルケ・カラがナイマンの支援を受けて再びトオリルを追放し、トオリルは西夏やウイグル、カラ・キタイ(西遼)など各地を放浪する事になった。やがてイェスゲイの息子テムジン(のちのチンギス・カン)が強大になったことを聞いて再びイェスゲイとの縁故を頼ってモンゴル部族のテムジン陣営もとに亡命して来た、と『聖武親征録』『集史』『元史』『元朝秘史』などで一致して伝えている。

[3][4]

ナイマンの分裂

イナンチュ・ビルゲ・ブク・カンの死後、その2子であるタイ・ブカブイルクは父の一愛妾を手に入れようとして不和となり、2つの勢力に分かれた。ブイルクは自分とつながりの深い数部族を従えてアルタイ山脈に近いキジル・バシュの山地へ退き、兄のタイ・ブカは父の帳殿と平原地方を保持した。

1199年、両兄弟の争いが続いたため、モンゴルテムジンケレイトオン・カンがそれに乗じてブイルクを攻め、多くの部民と家畜を略奪した。ブイルクはキルギスに附属するケムケムジュート地方へ避難した。その後、ナイマンの将サブラクがケレイトに対して善戦をしたが、すぐにモンゴルの援軍が入ったため、ナイマン軍は敗北した。

[5]

モンゴルとの戦い

1202年メルキトの王トクトア・ベキがモンゴルに敗れ、ブイルクに援助を求めてきた。そこで、ブイルクはドルベン英語版タタルカタギンサルジウトオイラトといった諸部族を集めてモンゴル・ケレイト連合に向かって進軍を開始した。対するテムジンとオン・カンはウルクイ河畔を去って中国国境に近いカラウン・ジドン山の方向へ退却した。ナイマン連合軍はこれを追ってカラウン・ジドンの山脈に入ったが、激しい吹雪に遭って多くの人が凍傷にかかり、さらに崖から落ちた人が多数にのぼったため、遠征は失敗に終わった。

1203年、テムジンと反目したオン・カンがナイマンの領土を通過したため、国境守備の将校は彼を殺し、その首を王であるタイ・ブカのもとへ送った。しかし、タイ・ブカはオン・カンを殺したことに怒り、彼の頭蓋骨を銀の器の中に収めて保存した。

タイ・ブカは日増しに勢力を拡大するテムジンに危機感を覚え、オングトの王アラクシ・ディギト・クリへ使節を派遣して同盟を組もうとした。しかし、アラクシがこのことをテムジンに通告したため、同盟を組むことはおろか、テムジンの進軍を促してしまった。1204年、テムジンがナイマンの領土に侵攻してきたため、タイ・ブカはメルキト王トクトア、ケレイト首領アリン・タイシ、オイラト王クドカ・ベキ、ジャディラト氏首領ジャムカを始め、ドルベン、タタル、カダキン、サルジウトの諸部族と共にハンガイ山脈の麓に陣を張った。両軍が戦闘を開始すると、数では勝るナイマン軍が少数であるモンゴル軍と互角となり、次第に押されていった。この戦闘でナイマン王であるタイ・ブカが戦死し、その子のグチュルクアルタイ山脈付近に割拠した叔父であるブイルク・カンのもとへ身を寄せ、メルキト以外の同盟部族はすべてモンゴルに降った。

この際、テムジンはタイ・ブカの宰相であるウイグル人のタタ・トゥンガを捕えて自分に仕えるようにし、自分の諸子にウイグル語およびウイグル文字、ならびにウイグル民族の法制・慣習を教えさせた。

[6]

ナイマンの西走

1206年、モンゴルのテムジンは「チンギス・カン/チンギス・カガン」と号し、遊牧諸民族の帝王となった。クリルタイの解散後、チンギス・カンはナイマン王となっていたブイルク・カンに対して進軍し、ウルグ・タグ(大山)の山地付近にあるショゴクで狩猟中のブイルクを奇襲して殺害し、その家族、家畜および全財産を手中に入れた。辛うじて生き残った甥のグチュルクはメルキト王トクトアと共にイルティシュ川流域の地方へ逃走した。

1208年、チンギス・カンはグチュルクとトクトアを討つために、イルティシュ川へ向かって進軍した。途中、オイラトをその勢力に加え、グチュルクとトクトアをジャム川付近で攻撃した。トクトアは戦死したが、グチュルクはかろうじて逃れることができ、ビシュバリクを経由してクチャ地区へ至り、そこからトルキスタンの大カン(グル・カン)の朝廷であるカラ・キタイ(西遼)へ赴いた。グル・カンの耶律直魯古(在位:1177年 - 1211年)はグチュルクを歓迎し、その娘を与えて娶らせた。

[7]

カラ・キタイ征服

耶律直魯古はもっぱら狩猟と快楽に耽り、政治を衰退させたため、カラ・キタイ属国(ウイグルホラズム西カラハン朝)の離反を招き、すでに一定の地位を築いていたグチュルクに王位簒奪の機会を与えた。グチュルクはまず、耶律直魯古にイミル、カヤリク、ビシュバリクの地方に流浪しているナイマンの残党を糾合し、耶律直魯古のお供をさせたいと願い出て、耶律直魯古から「グチュルク・カン(強大なる君主)」の称号を与えられた。さっそくグチュルクはナイマンの残党を集め、メルキトの首長もこれに加えると、ホラズムとペルシアのスルターンであるアラーウッディーン・ムハンマド(在位:1200年 - 1220年)に協力を仰ぎ、カラ・キタイ攻撃の準備を整えた。

ホラズム軍はカラ・キタイに侵入し、カラ・キタイの将軍ターヤンクーを破った。1211年/1212年、グチュルクは混乱に乗じて耶律直魯古一行を急襲し、その身柄を確保した。こうしてグチュルクはカラ・キタイの王位を獲得したが、耶律直魯古が逝去した1213年まで、「皇帝」の称号を名乗らなかった。

[8]

グチュルクのイスラーム弾圧

カラ・キタイの王位を獲得したグチュルクはアルマリクのカンであるオザルを服従させようとして、何度か兵を進め、遂に彼が出猟中に奇襲して殺害した。時に耶律直魯古の娘であるグチュルクの妻は仏教徒であったため、キリスト教徒であったグチュルクを説得して仏教に改宗させた。仏教徒となったグチュルクは武力によってホータンを支配すると、ムスリムであるそこの住民を無理矢理キリスト教徒か仏教徒に改宗させようとした。また、イマームたちの首領であるアラーウッディーン・ムハンマドを拷問の末、磔(はりつけ)の刑に処し、イスラームを棄てさせようとした。こうしてこの後もグチュルクのムスリムに対する迫害は続くこととなる。

[9]

モンゴルのカラ・キタイ侵入

1218年、チンギス・カンは宿敵であるグチュルクがカラ・キタイで王位に就いていることを見過ごさず、ジェベ・ノヤン率いる2万をホータンに差し向けた(モンゴルの西遼征服)。グチュルクはカシュガルに逃亡したが、すぐに追いつかれ、バダフシャーンの山中で捕まり、斬首された。

[10]

その後のナイマン

ナイマンの余衆はモンゴルに再編されたが、その子孫は後に反フビライ家連合たる四オイラト(ドルベン・オイラト、Dorben Oirad)の一角、チョロース部を形成した。チョロース部から更にドルベト部英語版ジュンガル部が誕生することとなる。

ジュンガル帝国(ジュンガル・ホンタイジ国)の滅亡後、によって内蒙古六盟四十九旗が設置されると、ジョーオダ(昭烏達)盟のひとつ、ナイマン(奈曼)部一旗としてその名が残った。

現在、カザフスタン東部で200万人以上のナイマン族が居住している。

名称と地理

ラシードゥッディーンは『ジャーミウ=ッタワーリーフ Jāmiʿ al-Tawārīkh(集史)』において、ナイマン族の領域の地理的位置を記し、その名称がモンゴル語で「八つの数」を意味すると伝えている。その領域は大アルタイ山脈、カラコルム山脈、エルイ・シラス山地、アルディシュ(ザイサン)湖(イルティシュ湖)、イルティシュ川流域、イルティシュ川キルギス族の地方に走る山地を抱合し、北はキルギス地方、東はケレイト族の領土、南はウイグル地方、西はカンクリ族の地方とそれぞれ接していた[11]


  1. ^ 佐口透 1989、p8
  2. ^ 村上正二 1972、p38
  3. ^ 例えば、『元史』巻1 太祖本紀「初、汪罕之父忽兒札胡思盃禄既卒、汪罕嗣位、多殺戮昆弟。其叔父菊兒〔罕〕帥兵與汪罕戦、逼於哈剌温隘敗之、僅以百餘騎脱走、奔于烈祖。烈祖親将兵逐菊兒〔罕〕走西夏、復奪部衆歸汪罕。汪罕徳之、遂相與盟、稱為按答。按答、華言交物之友也。 烈祖崩、汪罕之弟也力可哈剌、怨汪罕多殺之故、復叛歸乃蛮部。乃蛮部長亦難赤為發兵伐汪罕、盡奪其部衆與之。汪罕走河西、回鶻、回回三国、奔契丹。既而復叛歸、中道糧絶、捋羊乳為飲、刺橐駝血為食、困乏之甚。帝以其與烈祖交好、遣近侍往招之。帝親迎撫労、安置軍中振給之。遂會于土兀剌河上、尊汪罕為父。」
  4. ^ 佐口 1968,p44-45
  5. ^ 佐口 1968,p49-50
  6. ^ 佐口 1968,p56-78
  7. ^ 佐口 1968,p142
  8. ^ 佐口 1968,p142-146
  9. ^ 佐口 1968,p147-149
  10. ^ 佐口 1968,p149
  11. ^ 佐口透 1989、p51
  12. ^ 第二類「現在はモンゴルと呼ばれているが、以前はそれぞれ別の名を持ち、独立した首長を持っていたテュルク部族」で、ジャライルスニトタタルメルキトオイラトバルグトテレングト,森のウリヤンカトなどである。
  13. ^ 第四類「久しい前から通称はモンゴルであったテュルク部族、これから出た多くの部族」で、ウリヤンカトコンギラトタイチウト,チノス,マングトバアリンなどである。
  14. ^ 宮脇淳子 2002、p138
  15. ^ 村上正二 1970、p319
  16. ^ Pelliot et Hambis,p.p.215-218,297-314
  17. ^ 村上正二 1970、p320


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