ナイマンの西走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 08:02 UTC 版)
1206年、モンゴルのテムジンは「チンギス・カン/チンギス・カガン」と号し、遊牧諸民族の帝王となった。クリルタイの解散後、チンギス・カンはナイマン王となっていたブイルク・カンに対して進軍し、ウルグ・タグ(大山)の山地付近にあるショゴクで狩猟中のブイルクを奇襲して殺害し、その家族、家畜および全財産を手中に入れた。辛うじて生き残った甥のグチュルクはメルキト王トクトアと共にイルティシュ川流域の地方へ逃走した。 1208年、チンギス・カンはグチュルクとトクトアを討つために、イルティシュ川へ向かって進軍した。途中、オイラトをその勢力に加え、グチュルクとトクトアをジャム川付近で攻撃した。トクトアは戦死したが、グチュルクはかろうじて逃れることができ、ビシュバリクを経由してクチャ地区へ至り、そこからトルキスタンの大カン(グル・カン)の朝廷であるカラ・キタイ(西遼)へ赴いた。グル・カンの耶律直魯古(在位:1177年 - 1211年)はグチュルクを歓迎し、その娘を与えて娶らせた。
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