ナイマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 01:29 UTC 版)
言語系統
ラシードゥッディーンが『ジャーミウ=ッタワーリーフ(集史)』において、中央ユーラシア草原の遊牧民を大きく四つに分類し、第三類「以前は独立した首長を持っていたが、第二のテュルク系部族[12]とも第四のモンゴル部族[13]ともつながりはなく、しかし外観や言語は彼らと近いテュルク部族」にナイマンを含めていることから、テュルク系の言語であったとされる[14]。
文化・宗教
ナイマンの王(カン)はシャーマン的巫者の性格を帯びていたが、同時に前代以来の強いウイグル文化の影響を受けてその文字(ウイグル文字)を用い、比較的高度な文化を享受していた。また、ケレイト同様、ネストリウス派のキリスト教も信奉していた[15]。
構成氏族
ポール・ペリオの考証によると[16]、ナイマン族には少なくとも3つの氏集団があったという[17]。
- アクサド(Aqsaud > Aqsūd)…「跛(びっこ)族」の意。おそらくタヤン・カンの支配する主要なナイマン族。
- グチュウト(Güčü'üd < Küčü'üd)…「野鼠族」の意。おそらくブイルク・カンの支配するナイマン族。
- ベテキン(Betekin)…「別的姻族」の意。おそらく昔は強大で著名だったカディル・ブユルク・カンの支配したナイマン族。
歴代君主
ナイマンの君主は「カン(Qan、汗): 王」という称号を帯びていた。
- ナルクシュ・タヤン・カン(Nārquš Tāyānk Qān)
- カジル・カン…ナルクシュ・タヤン・カンの子
- イナンチュ(イナンチャ)・ビルゲ・ブク・カン(Inančā Qan,Ïnānč Bilge Bügü Qān)…ナルクシュ・タヤン・カンの弟
- タヤン・カン(太陽罕、脱児魯黒、タイ・ブカ)(? - 1204年)…イナンチュ・ビルゲ・ブク・カンの長男
- ブイルク・カン(Buyiruγ Qan < Buyuruγ Qan,Būyūrūq Qān)…イナンチュ・ビルゲ・ブク・カンの次男
- グチュルク・カン(1204年 - 1218年殺)…西遼(カラ・キタイ)の第4代皇帝(在位:1211年 - 1218年)となる。
→モンゴル帝国によって滅亡
脚注
ナイマン、найман はモンゴル語ではなく、カザフ語です
- ^ 佐口透 1989、p8
- ^ 村上正二 1972、p38
- ^ 例えば、『元史』巻1 太祖本紀「初、汪罕之父忽兒札胡思盃禄既卒、汪罕嗣位、多殺戮昆弟。其叔父菊兒〔罕〕帥兵與汪罕戦、逼於哈剌温隘敗之、僅以百餘騎脱走、奔于烈祖。烈祖親将兵逐菊兒〔罕〕走西夏、復奪部衆歸汪罕。汪罕徳之、遂相與盟、稱為按答。按答、華言交物之友也。 烈祖崩、汪罕之弟也力可哈剌、怨汪罕多殺之故、復叛歸乃蛮部。乃蛮部長亦難赤為發兵伐汪罕、盡奪其部衆與之。汪罕走河西、回鶻、回回三国、奔契丹。既而復叛歸、中道糧絶、捋羊乳為飲、刺橐駝血為食、困乏之甚。帝以其與烈祖交好、遣近侍往招之。帝親迎撫労、安置軍中振給之。遂會于土兀剌河上、尊汪罕為父。」
- ^ 佐口 1968,p44-45
- ^ 佐口 1968,p49-50
- ^ 佐口 1968,p56-78
- ^ 佐口 1968,p142
- ^ 佐口 1968,p142-146
- ^ 佐口 1968,p147-149
- ^ 佐口 1968,p149
- ^ 佐口透 1989、p51
- ^ 第二類「現在はモンゴルと呼ばれているが、以前はそれぞれ別の名を持ち、独立した首長を持っていたテュルク部族」で、ジャライル,スニト,タタル,メルキト,オイラト,バルグト,テレングト,森のウリヤンカトなどである。
- ^ 第四類「久しい前から通称はモンゴルであったテュルク部族、これから出た多くの部族」で、ウリヤンカト,コンギラト,タイチウト,チノス,マングト,バアリンなどである。
- ^ 宮脇淳子 2002、p138
- ^ 村上正二 1970、p319
- ^ Pelliot et Hambis,p.p.215-218,297-314
- ^ 村上正二 1970、p320
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