デヴィッド・ビントレー デヴィッド・ビントレーの概要

デヴィッド・ビントレー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 14:09 UTC 版)

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David Bintley CBE
デヴィッド・ビントレー
生誕 (1957-09-17) 1957年9月17日(63歳)
イギリス ハダーズフィールド
出身校ロイヤル・バレエ学校

1995年から2019年までバーミンガム・ロイヤル・バレエ団(BRB)の芸術監督を務めた[2]。2010年から2014年までは、日本の新国立劇場舞踊芸術監督を兼務した[3]

振付家としてこれまでに50作近いバレエ作品を生み出している。作曲家に新規に作曲を委嘱してつくった作品は10を超え、これは21世紀に活躍するバレエ振付家の中では際立って多い。

経歴

英国ウエスト・ヨークシャー州の町・ハダーズフィールド生まれ。両親は製図を本業とするジャズの演奏家[4][注釈 1]であり、子供のときからジャズの生演奏を聴いて育った[6]。4歳のときに初めて舞台を観て、将来は劇場に関わる仕事に就くことを決心したという[7]。やがて地元ハダーズフィールドのオードリー・スペンサー[1][注釈 2]に舞踊を習い始める。このほかコメディアンの早口口上や歌謡に挑戦したこともあった[7]

1974年、ロイヤル・バレエ学校の上級学校に入学。在学中からロイヤル・バレエ団の創設者ニネット・ド・ヴァロアに目をかけられ、振付を奨励された[9]。1976年の卒業と同時にサドラーズウェルズ・ロイヤル・バレエ団(現在のBRB)に入団し、アシュトンリーズの結婚』 シモーヌ役、ド・ヴァロワ 『チェックメイト』 赤のキング役など、キャラクターダンサーとしての役を多くこなした。1984年には 『ペトルーシュカ』 のタイトルロールを踊り、同年のローレンス・オリヴィエ賞を受賞[10]。ダンサーとしては公式な引退公演はなく、1993年の出演が最後だったと見られている[5]

振付は1978年、20歳で作った 『異邦人』 を処女作として、以降毎年1〜2作をサドラーズウェルズ・ロイヤルで発表していった。1983年〜85年は同バレエ団の常任振付家[注釈 3]、1986年から93年まではロイヤル・バレエ団の常任振付家を務めた。1988年にロイヤル・オペラハウスで初演された 『ペンギン・カフェ』 は代表作の一つとなる。1993年から約1年間はフリーランスの振付家としてサンフランシスコ・バレエ団など複数のバレエ団で振付を担当した。1995年、引退したピーター・ライトの後を継いでバーミンガム・ロイヤル・バレエ団(旧サドラーズウェルズ・ロイヤル・バレエ団)の芸術監督となった。

新国立劇場では2005年に 『カルミナ・ブラーナ』 を上演したことが機縁となり、2008年9月芸術参与に就任。同年11月に新作 『アラジン』 を発表した。参与としての2年間の準備期間を経て、2010年9月、牧阿佐美の後任として同バレエ団の芸術監督に就任した。2014年9月に任期を終え、大原永子にその座を引き継いだ[3]

作風と人物

『エドワード2世』 『アーサー』 など歴史上の人物を題材にした物語バレエ、『ガラントゥリーズ』 などの純粋な舞踊作品、古典バレエの再振付・新演出など、幅広く手掛ける。使用する音楽はモーツァルトなどの古典のほか、20世紀〜現代のイギリスの作曲家によるもの、ジャズなどさまざま。作品の雰囲気は毎回異なり、意識的に変えているのではないかとの観測もあった[注釈 4]

自身が尊敬する振付家として、アシュトンバランシンフォーキン[12]クランコ[9]の名前を挙げている[注釈 5]。特にバランシンは作曲家に委嘱して音楽そのものを作り出した点を評価すると話しており[12]、1993年に渡米してサンフランシスコ・バレエ団に赴いたのも純粋にバランシンが好きだったからだという[13]

一方、ド・ヴァロワとアシュトンの二人については、「…自分の祖父母のような存在。温かく、抑圧的なところがなく、二人を深く尊敬していた」[13]と話す。アシュトンについて、BRBの芸術監督となった直後のビントレーは、1970年以前のアシュトン作品に代表される「英国流のダンス」が近年のロイヤル・バレエ団では失われつつあると述べた上で、その再興をBRBの課題の一つに挙げていた[5]。別の評者によれば、このアシュトン作品に見られる英国流 (English Style) ダンスの特徴とは、頭部と腕の自然な運びや、ステップの細かさ、また一つ一つのポジションを明確に見せる点などにあるといい、それらはビントレー作品の 『ガラントゥリーズ』『トンボー』 などで生かされているとも言う[14]。こうした点を踏まえてか、ビントレーの振付そのものは新しさを衒うものではなく、どちらかといえば伝統的な手法に基づくと考える評者もあった[15]

後ろ盾であったド・ヴァロワには「英国流バレエ」の実現をしばしば説かれたという。ド・ヴァロワの理想とするバレエとは、すなわちダンス、マイム、音楽、装置という異なる芸術の組み合わせであり、それらを総合して観客に感動を与えるものでなくてはならないという[9]

芸術監督として

少数のスター・ダンサーだけが活躍することには否定的で[12]、バレエ団は振付家自身が主導する必要があると話す[16]。またバレエ団は上演する作品によってアイデンティティを確立しなければならないともいう。バーミンガムではある年に 『くるみ割り人形』 を上演演目から外して代わりに自身の 『エドワード2世』 を入れ、抗議の投書を受けたことがあるという[17]

ビントレーの振付の速度について、1993年に新演出 『シルヴィア』 の初演を踊った吉田都は、「彼の振付るスピードはとても速くて、元に戻っておさらいをしてくれないので、苦労した」と話していた[11]

新国立劇場の芸術監督となって2年目の2011年秋には、新たに振付・演出した 『パゴダの王子』 を上演した。


  1. ^ 両親ともピアノを教えていたという情報もある[5]
  2. ^ 1950年代以降、バレエのほかタップダンス、モダンダンスなど舞踊を幅広く教えている人物[8]。別のインタビュー記事によれば、これは自身の姉が通っていた教室のようである[4]。※当該記事では「妹」[4]となっているが、ビントレーが踊りを習い始める際に影響を受けたのはであり、これはインタビューを日本語化する際に誤ったものであろう。
  3. ^ : Resident Choreographer
  4. ^ サドラーズウェルズ・ロイヤルおよびBRBでビントレー作品を数多く踊った吉田都による私見[11]
  5. ^ 以前はマリウス・プティパも含めていたが、プティパ作品のどこまでが本当にプティパの手になるものか分からないため、現在ではやや遠い存在になったと述べている[12]
  6. ^ Peter McGowan、1984年当時、サドラーズウェルズ・ロイヤル・バレエ管弦楽団の団員。
  1. ^ a b Hetherington, Monica, "David Bintley", International Dictionary of Ballet, vol.1, St. James Press, 1993, ISBN 1-55862-157-1, p.150.
  2. ^ DAVID BINTLEY - Choreographer”. Birmingham Royal Ballet. 2021年3月24日閲覧。
  3. ^ a b 読売新聞』 2014年11月4日付夕刊、第3版、第7面。
  4. ^ a b c ビントレー×三浦雅士「バレエに魅了された幼い魂の遍歴」(ダンスマガジン 2008年1月号 〔第18巻第1号〕、新書館、p.38.)
  5. ^ a b c Flatow, Sheryl, "David Bintley: a rebel for tradition", Dance Magazine, September 1996
  6. ^ "Musical Moves...a choreographer's relationship to music", BBC Radio 4, 1990
  7. ^ a b Edmonds, Richard, "The Saturday Interview: No outsider to creating small miracles - David Bintley", Birmingham Post, Jan 25, 2003
  8. ^ www.audreyspencerdanceschool.co.uk
  9. ^ a b c Mead, David, "Putting the 'English' into Ballet", ballet ~ dance magazine, April 2010
  10. ^ Additional Dance Awards ("The Laurence Olivier Awards: full list of winners 1976-2008", The Society of London Theatre, p.15)
  11. ^ a b ダンスマガジン編 『バレエのプリンセス 吉田都の世界』 新書館、1997年、p.79. ISBN 4-403-32003-1
  12. ^ a b c d Ng, Kevin, "Interview with David Bintley", ballet.co Magazine, May 2000
  13. ^ a b Simpson, Rin, "A beast of a ballet; performing arts As David Bintley prepares to bring the Birmingham Royal Ballet to Wales, Rin Simpson talks to the artistic director about his career, which is taking him to the Far East", Western Mail, Oct 3, 2008 〔Proquestにて閲覧〕
  14. ^ Rigby, Cormac, "David Bintley", International Encyclopedia of Dance, vol.1, Oxford University Press, 1998, ISBN 0-19-517585-9, p.453.
  15. ^ Hetherington, op cit., p.152
  16. ^ Boccardo, Patricia, "A Tradition of Niceness", culturekiosque, 26 April 2000
  17. ^ Brown, Ismene, "A ray of sunshine over Birmingham" Telegraph.co.uk, March7, 2005
  18. ^ 'Still Life' at the Penguin Café, ROH Collections Online
  19. ^ アン・ヌージェント 「『シルヴィア』の空白 デヴィッド・ビントリーの新演出」(ダンスマガジン 1994年2月号 〔第4巻第3号〕、新書館、p.73.)


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