デヴィッド・ビーティーとは? わかりやすく解説

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デヴィッド・ビーティー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/12 08:57 UTC 版)

デヴィッド・ビーティー提督

デヴィッド・リチャード・ビーティー(デイヴィッド、ディヴィッドとも、ビーティとも)(David Richard Beatty(1st Earl Beatty of the North Sea and of Brooksby)1871年1月17日1936年3月11日)は、イギリス海軍提督

適切な判断力と絶対に戦闘を捨てない旺盛な攻撃精神は見事というほか言葉を知らず、高く評価されている。

1914年バス爵位、1919年メリット爵位を授与され、ビーティー伯家を創設[1]

生い立ち・第一次世界大戦までの略歴

ビーティーは1871年、アイルランド系の騎兵士官の子として誕生した。少年時代から海軍士官となる事を夢に見、13歳で海軍兵学校に入校、15歳で士官候補生に任官した。

1884年:海軍士官候補生として練習艦「ブリタニア」に乗船[1]

1896年~98年:エジプト・スーダンに勤務。スーダン戦争においてナイル川を遡航する砲艦の指揮を執り、川沿いに進軍する陸軍を援護する作戦に功を認められ、DSO勲章を授与された。

1897年:27歳で海軍中佐(Commander(当時は現在の少佐に当たる階級がなく、現在の大尉に相当するLieutenantから直接昇進))に任じられた。

1900年:シナ艦隊所属の戦艦「バーフラー」(Barfleur)乗り組み時に北清事変が発生、分遣隊を指揮して艦隊司令長官セイマー大将の救出作戦を成功させた功によってわずか29歳で海軍大佐に昇進する。

その後、いくつかの巡洋艦や戦艦「クイーン」の艦長を歴任したが、その間にアメリカの富豪令嬢と結婚、やがて海軍大臣となるウィンストン・チャーチルに認められて大臣秘書官を経た後、1913年に海軍少将となり、第1巡洋戦艦戦隊司令長官に任命された。

第一次世界大戦が始まった時、彼の部隊はスコットランドのファース・オブ・フォース北岸のロシスを基地として、巡洋戦艦と多数の巡洋艦からなる高速部隊を指揮してグランド・フリートの先遣部隊の役割を果たす事となった。

ヘルゴラント・バイト海戦

1914年8月28日早朝、英艦隊はドイツ帝国の内海ともいうべきヘルゴラント・バイトに軽艦隊を侵入させた。ビーティーの巡洋戦艦部隊は支援部隊としての作戦参加だったが、最終段階で巡洋戦艦隊をバイト内に進入させ、反撃に出動してきたドイツ軽巡洋艦部隊を撃滅して緒戦の勝利を飾った。

ドイツ艦隊のヒッパー率いる巡洋戦艦部隊が到着した頃には、英艦隊はすでに引き上げていた。

ドッガーバンク海戦

1915年1月24日のこの海戦で、英独両国の巡洋戦艦部隊は初めて直接の砲火を交える事となった。すでにドイツ巡洋戦艦部隊は、ヒッパー指揮の下に1914年11月と12月にイングランドの北海沿岸都市砲撃という一撃離脱作戦を連続実施していた。この時ドイツ側無電を解読した英海軍はビーティーの巡洋戦艦部隊をドッガーバンクに出動させ、ドイツ艦隊の捕捉に成功する。

ヒッパーは直ちに全速で撤退行動に移り、ビーティーもこれに応じて高速追撃戦に移った。ヒッパーの旗艦ザイドリッツは後部砲塔を直撃されて揚弾庫内の火薬に引火したが、かろうじて爆沈を免れた。一方、追撃戦の先頭をきったビーティーの旗艦ライオンはドイツ艦隊の集中砲火を受け、15発の命中弾が引き起こした大量浸水によって船体が10度傾斜し、左舷機関も故障して速力も15ノットに低下した。ライオンは列外に落伍したが、追撃続行を意味する「敵の後部を攻撃せよ」「敵艦にもっと接近せよ」というビーティーの信号は誤解され、次席司令官は全艦隊を損傷で落伍したドイツ装甲巡洋艦ブリュッヒャーへの攻撃に変更してしまったため、ドイツ艦隊主力はついに逃走に成功した。駆逐艦に移乗して艦隊を追ったビーティーは、ブリュッヒャーを撃沈して引き上げてきた英艦隊を見て、怒りを抑えて帰還の途についた。

ユトランド沖海戦

1916年5月31日のこの海戦は英独巡洋戦艦部隊最大の対戦となった。この日ドイツ艦隊は全主力が出動し、ヒッパーの部隊が先行したが、英艦隊はこの時もドイツ側の無電を解読してドイツ艦隊出動の予想位置に向かっていた。英巡洋戦艦隊を認めたヒッパーは直ちに反転して英艦隊をドイツ戦艦隊の方向に誘致する進路を維持した。

6隻の英艦に対して、5隻の独巡洋戦艦は並航戦に入り、最初の40分間に英巡洋戦艦インディファティガブルとクイーン・メリーが撃沈された。ビーティーはこの不利な情勢のなかでも断固として艦列を維持し、「チャットフィールド君(旗艦ライオンの艦長)、今日はどうも情勢不利らしいね。左舷2点に転舵したまえ」と命じて敵側への接近を図り、距離を詰めての命中率向上を図った。

ドイツ戦艦隊が接近するや、今度は英巡洋戦艦隊が退却に転じ、ヒッパーの部隊はビーティーの巡洋戦艦4隻と遅れて参戦した高速戦艦4隻を相手に激しい砲火の応酬を続けた。

結局、ヒッパーの巡洋戦艦部隊は旗艦リュッツォウが浸水大量で翌朝沈没し、その他4隻もほとんど戦闘力を喪失し、大量浸水で沈没寸前の状態になりながらも基地への帰還に成功した。旗艦を失ったヒッパーはいったん駆逐艦に移乗し、2時間後、巡洋戦艦モルトケに将旗を移して帰還した。

ユトランド沖海戦後

ユトランド沖海戦で英国が戦略的勝利を得た事もあり、以後英独の主力が再び砲火を交える事はなかった。そして、ビーティーは全艦隊の司令長官となって大戦の終結を迎える事となる。

1916年12月、ジェリコーが海軍第1委員に就任した後を受けて、グランド・フリート司令長官となり、1919年までその職に留まった。この時点で海軍元帥に昇進し、伯爵を授けられている。

1919年~27年の間、海軍第1委員に就任。ワシントン条約による海軍艦艇勢力の整理を実施。艦隊空軍(Fleet Air Arm)の所属をめぐって空軍と激しく争ったが負けてしまい、政治がらみの駆け引きはあまり得意ではなかったようである。

1921年、ワシントン会議に出席[1]

死後

セント・ポール教会に葬られ、その棺はネルソン提督のものと並んでいる。

ギャラリー

参考文献

  • 世界の艦船No.553

脚注

  1. ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版



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