タイコンデロガの攻略 アメリカ独立戦争勃発

タイコンデロガの攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 03:39 UTC 版)

アメリカ独立戦争勃発

1775年、タイコンデロガ砦は、フレンチ・インディアン戦争のときほどには戦略上重要な拠点とはみなされていなかった。フレンチ・インディアン戦争の時は、1758年、大人数のイギリス軍を相手にここを守ったカリヨンの戦い、翌1759年に、イギリスがここを占領したタイコンデロガの戦いの舞台となった。しかし、1763年パリ条約の後、フランスは北アメリカの領土をイギリスに割譲し、イギリスは、戦略上の要であるこの砦をめぐって、フランスとぶつかり合う必要もなくなっていた。[9] フランス軍は、1759年の戦いで、撤退の際に火薬庫を爆発させたため、その時以来、要塞は荒れるがままになっていた。1775年、イギリスはここに、第26歩兵連隊(en:26th Foot)から小規模の駐屯隊を派遣した。その内訳は2人の士官と46人の兵士で、兵士の大部分は、免役された傷病兵だった。25人の女性と子供もそこで暮らしていた。かつての存在価値の大きさから、この砦は「大陸の入り口」「アメリカのジブラルタル」と評価されていたが、1775年当時では、歴史家のクリストファー・ウォードによれば、「と言うよりは、過疎地の村」であった。[5]

アメリカ独立戦争が本格的に始まる前から、アメリカのパトリオット(愛国者)は、タイコンデロガ砦に関心を寄せていた。この砦は幾つか重要な点があった。砦の内側には大砲榴弾砲、そして臼砲といった、アメリカに不足している軍備がそのまま残されていた。[10][11] また、シャンプラン湖の湖岸に面したこの砦は、13植民地反乱軍とイギリス支配のカナダ軍が対決する上で、大きな意味を持つ場所にあった。ここに駐屯しているイギリス軍は、ボストンの植民地軍に対し、背後から攻撃を加え、危険にさらすつもりだった。[10]4月19日レキシントン・コンコードの戦いが勃発し、イギリスの将軍トマス・ゲイジは、この砦の強化が必要であること、そして、植民地の人物の中に、占領を計画している者がいることに気づいた。レキシントンとコンコードに続いて、イギリスに包囲されたボストンから、ゲイジは、ケベック植民地総督ガイ・カールトンにこう書き送っている。タイコンデロガとクラウン・ポイントの砦を使用可能にし、一層強化すること[12]。カールトンがこの手紙を受け取ったのは5月19日で、タイコンデロガが占領されてからかなり経ってのことだった。[13]

ベネディクト・アーノルドは頻繁に、タイコンデロガ砦の周辺に出向いており、その状況や、駐屯部隊や、軍備についてはよく知っていた。ボストンへの帰路、アーノルドは4月19日に戦闘が始まったと聞き、サイラス・ディーン民兵に、この砦や状況について話した。[14]コネチカットの通信委員会は、この情報に基づいて行動した。植民地の金庫から軍資金が借り出され、新兵徴集の担当者が、コネチカットの北西部や、マサチューセッツ西部、そしてニューハンプシャー特権地(現在のバーモント州)に、砦の攻撃の志願兵を育成するために送られた。[15]

ジョン・ブラウンは、マサチューセッツのピッツフィールド出身のスパイで、ボストンの前線と、モントリオールの、パトリオッツの支持者との間を行き来しており、砦と、その戦略的な価値についてよく知っていた[9]イーサン・アレンと他の愛国者たちは、ニューハンプシャー特権地にいた。彼らもまた、特権地が、ニューヨークとニューハンプシャーとの間で、所有権をめぐってもめている現状に、砦が何らかの役割を果たすのではないかと気づいていた[16] 。コネチカットでの召集に先んじて砦を占領するか、それとも所有権での紛争を煽るか、はっきりとはしなかった。ブラウンは、3月に行われた、マサチューセッツの安全委員会に、自らの意見として、イギリス軍に敵愾心を抱かせることになっても、タイコンデロガはできるだけ早く奪い取っておくべきであると主張した。[16][17]

アーノルドはボストンの包囲の外に着き、マサチューセッツ安全委員会に、守りが手薄なタイコンデロガに、大砲や軍備があることを伝えた。5月3日、委員会はアーノルドを大佐に任官し、「秘密命令」を遂行する権限を与えた。それは砦の占領だった。[18] アーノルドは、100ドルと、火薬を少し、弾薬、そして馬を支給され、最高400人の兵の召集と、砦への進軍、帰路は、使用可能と思える船でマサチューセッツへ戻るように命令を受けた。[19]


  1. ^ Pell (1929), p. 81によれば、この証拠はない。 Boatner (1974) (pp. 1101–1102) では、アーノルドが単にアレンの後について歩いくのを許されたとなっており、 The Taking of Ticonderoga in 1775. Bellesiles (1995), p. 117では、アレンがアーノルドの気持を鎮めるために、先頭を歩かせたのだと主張している。
  1. ^ P. Nelson (2000), p. 61
  2. ^ a b Bellesiles (1995), p. 117
  3. ^ Smith (1907), p. 144
  4. ^ a b c Randall (1990), p. 104
  5. ^ a b Ward (1952), Volume 1, p. 69
  6. ^ a b Chittenden (1872), p. 109
  7. ^ a b Jellison (1969), p. 131
  8. ^ a b Ward (1952), Volume 1, p. 68.
  9. ^ a b Randall (1990), p. 86.
  10. ^ a b Ward (1952), Volume 1, p. 64.
  11. ^ Drake (1873), p. 130.
  12. ^ Gage (1917), p. 397.
  13. ^ Lanctot (1967), p. 49.
  14. ^ Randall (1990), p. 85.
  15. ^ Randall (1990), p. 87.
  16. ^ a b Bellesiles (1995), p. 116.
  17. ^ Boatner (1974), p. 1101.
  18. ^ Ward (1952), Volume 1, p. 65.
  19. ^ J. Nelson (2006), p. 15.
  20. ^ Randall (1990), p. 86–89.
  21. ^ a b Randall (1990), p. 90.
  22. ^ Smith (1907), pp. 124–125.
  23. ^ a b Randall (1990), p. 91.
  24. ^ Phelps (1899), p. 204.
  25. ^ Jellison (1969), pp. 114–115.
  26. ^ Randall (1990), p. 95.
  27. ^ a b Randall (1990), p. 96.
  28. ^ a b Randall (1990), p. 97.
  29. ^ Jellison (1969), p. 124.
  30. ^ Chittenden (1872), p. 49.
  31. ^ J. Nelson (2006), p. 40.
  32. ^ Chipman (1848), p. 141
  33. ^ a b c Randall (1990), p. 98
  34. ^ Smith (1907), p. 155
  35. ^ Morrissey (2000), p. 10
  36. ^ Randall (1990), p. 101
  37. ^ Randall (1990), p. 103
  38. ^ Smith (1907), p. 157
  39. ^ Lanctot (1967), pp. 44,50
  40. ^ Randall (1990), p. 105
  41. ^ a b Lanctot (1967), p. 44
  42. ^ Randall (1990), p. 106
  43. ^ a b J. Nelson (2006), p. 53.
  44. ^ J. Nelson (2006), p. 61.
  45. ^ Randall (1990), pp. 128–129.
  46. ^ Lanctot (1967), pp. 55–60.
  47. ^ Jellison (1969), p. 120.
  48. ^ Lanctot (1967), p. 45.
  49. ^ Lanctot (1967), p. 50.
  50. ^ Lanctot (1967), p. 53.
  51. ^ Lanctot (1967), p. 52.
  52. ^ Smith (1907), p. 250.
  53. ^ French (1911), pp. 387–419.
  54. ^ Randall (1990), pp. 290–314.
  55. ^ Morrissey (2000), p. 86.
  56. ^ a b Mackesy (1993), p. 40.
  57. ^ J. Nelson (2006), p. 42.
  58. ^ Van Tyne (1905), pp. 161–162.
  59. ^ Randall (1990), p. 99.
  60. ^ Smith (1907), p. 184.
  61. ^ Randall (1990), p. 121.





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