タイコンデロガの攻略
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サンジャン砦への奇襲
セス・ワーナーは分遣隊を船に乗せて、タイコンデロガの近くのクラウン・ポイント砦に向かった。ここの駐屯兵は9人しかいなかった。多くの文献が、この攻略は5月10日に行われたと記載している。これは、アーノルドが、マサチューセッツ安全委員会に、5月11日に送った手紙によるもので、この攻略のため船を出したが、逆風に悩まされたと書いている。ところが、ワーナーの、「クラウンポイント本部」からの、5月12日付の手紙では、前日の11日に「砦を占領した」とある[6]。ワーナーの記憶では、10日に一度失敗し、翌日に成功したということなのだろう。[32] 別の少数部隊が、ジョージ湖のジョージ砦に送られた。ここの駐屯兵はたった2人だった。[33]
アーノルドの士官たちが徴集した兵が到着し始めた。フィリップ・スキンのスクーナー「キャスリーン」と、スケネスボロの何隻かの平底船(バトー)を強奪した少し後のことだった。[34][35] アーノルドはスクーナーに「USSリバティ1775/2」という新しい名前を付けた。捕虜たちが、シャンプレン湖の1隻きりのイギリスの軍艦が、湖の北にあるリシュリュー川の、サンジャン砦にいた艦だと話していた。アーノルドは、タイコンデロガの攻略の知らせが、サンジャンに届いたのかどうかはわからなかったが、この船に奇襲をかけて奪おうとした。「リバティ」に大砲を着け、50人の兵とともに5月14日に出港した。[36] アレンは、アーノルドを、砦攻略の英雄にしたくないため、平底船で、アーノルドの船を追いかけた。しかし、湖を航行する点では、アーノルドの小艦隊のほうが有利で、アレンの兵が乗った船を引き離した。5月17日までにアーノルド隊は湖の北岸に着いた。情報を得るために、サンジャン砦に兵を一人偵察に送り込んだ。兵はその日の遅くに戻って来て、イギリス軍はタイコンデロガとクラウン・ポイントが陥落したことを知っており、部隊はどうやらサンジャンに向けて動き出していると報告した。アーノルドは早急に行動を起こすことにした。[37]
一晩中船をこいだ後、アーノルドと兵士のうち35人は砦の近くで船を止めた。短時間で砦の様子を見終わったあと、砦の駐屯兵を脅かし、そこにあった物資と、70トンのスループであるイギリスの軍艦ロイヤルジョージ(en:HMS Royal George (1776))を奪った。[38] 駐屯兵から、中隊の一部がシャンブリーからの帰路に着いていると警告され、一行はより価値のある物資と大砲とを、ジョージに積み込んだ。このジョージは、エンタープライズをアーノルドが改名したものだった。持って行けない船は沈め、より規模が増したアーノルド艦隊が、シャンプラン湖へ戻って行った。[4] アーノルドたちのこの行為は、イギリスの退役軍人で、砦の近くに住んでいるモーゼス・ヘイズンに監視されており、ヘイズンは5月20日に、馬を走らせてモントリオールに行き、地元の軍の指揮官にこのことを告げ、さらにケベックにも行って、やはり20日に、カールトン総督にこのことを報告した。この報告にこたえ、チャールズ・プレストン少佐と140人の兵が、ただちにモントリオールからサンジャンに派遣された。[39]
湖に出て15マイル(約24キロ)行ったところで、アーノルドの艦隊はアレンたちに出くわした。彼らはまだ北を目指していた。祝砲を交わしたのち、アーノルドは食糧を開封して、アレンの兵たちに食事をさせた。無甲板船を、飲まず食わずで100マイル(約161キロ)こいで来たのだった。アレンは、自分たちがサンジャン砦を攻略できると信じて、北へと船を進め続けた。アーノルドは南を目指していた。[40] アレンが砦に着いたのは5月19日で、その日、支持者のモントリオールの商人から、イギリス軍が近づいているから気をつけろと忠告されていた。その商人は、馬でイギリス軍を追い抜いて来たのであった。[41] アレンは、モントリオール市民あての便りをその商人にことづけ、21日にタイコンデロガに戻るべく、サンジャンを離れた所へイギリスの艦隊が到着した。[41][42] イギリス軍から必死で逃れたが、3人が遅れ、1人は捕虜となった。しかし他の2人は陸路で南を目指した。[7]
- ^ Pell (1929), p. 81によれば、この証拠はない。 Boatner (1974) (pp. 1101–1102) では、アーノルドが単にアレンの後について歩いくのを許されたとなっており、 The Taking of Ticonderoga in 1775. Bellesiles (1995), p. 117では、アレンがアーノルドの気持を鎮めるために、先頭を歩かせたのだと主張している。
- ^ P. Nelson (2000), p. 61
- ^ a b Bellesiles (1995), p. 117
- ^ Smith (1907), p. 144
- ^ a b c Randall (1990), p. 104
- ^ a b Ward (1952), Volume 1, p. 69
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- ^ Morrissey (2000), p. 86.
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- ^ Smith (1907), p. 184.
- ^ Randall (1990), p. 121.
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