タイコンデロガの攻略 アレンとアーノルドの離脱

タイコンデロガの攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 03:39 UTC 版)

アレンとアーノルドの離脱

イーサン・アレンと兵たちは、結局タイコンデロガから離脱した。酒が切れかけたことがあったのに加え、アーノルドが、クラウン・ポイントを拠点にこの付近を取り仕切っていたからだ。[33][43] アーノルドは2隻の大型船に設備を取りつける作業を監督していて、結局エンタープライズの方は自分で指揮を執った。こういうことに詳しい船乗りがいなかったからだ。彼の兵たちは、タイコンデロガの兵舎を再建しており、また、2つの砦の残骸から兵器を抜き取って、砲架を取りつけていた。[43]

クラウン・ポイントの兵舎跡

コネチカットは、タイコンデロガ攻略のため、ベンジャミン・ヒンマン大佐の下、1,000人の兵を送り出していた。そしてニューヨークは、北からイギリスの攻撃の可能性があるため、やはり民兵を育成して、クラウン・ポイントとタイコンデロガを守らせようとしていた。ヒンマンの部隊が6月に到着した時、またしても主導権を巡って一悶着起きた。アーノルドが、ヒンマンの下で任務につくにもかかわらず、マサチューセッツの委員会からは、アーノルドへの連絡は何もなかった。ヒンマンは、クラウン・ポイントの指揮もする予定だと断言したが、アーノルドはそれを受け入れなかった。ヒンマンへの訓令には、タイコンデロガの指揮官としか記されていなかったからだ。[44] ついにマサチューセッツ委員会が代表団を派遣した。6月22日に彼らが着いた時、アーノルドは、ヒンマンの下で任務につくべきと明言した。アーノルドは2日間考えた後、自分の軍を解散し、任務を退いて帰路に着いた。砦の攻略のために、アーノルドは、1000ドル以上もの身銭をはたいていた。[45]

大陸会議は一連の砦の攻略を知って、2つ目の「カナダ住民への手紙」を起草した。これは6月中に、もう一人の同情的なモントリオール商人であるジェームズ・プライスに宛てられた。この手紙とはまた別に、弁の立つ、アメリカ支持者の活動と結び付いたニューヨーク議会からの手紙が、1775年夏にケベックの住民を扇動した。[46]

タイコンデロガの陥落の知らせがイギリスに届いた時、ダートマス卿ジョージ・レゲは「非常に不運である、全くもって非常に不運である」と書き記している。[47]

ケベックの反撃

ケベック総督ガイ・カールトン

タイコンデロガとクラウン・ポイントの攻略、特にサンジャン砦の奇襲は、ケベックの住民を驚かせた。モントリオール駐屯部隊の隊長、ダドリー・テンプラー大佐は、5月19日、防御のため民兵に召集をかけ、近辺に住む先住民に、武装するよう依頼した。わずか50人のフランス系の地主と、小貴族がモントリオール、またはその周辺で民兵として育成され、サンジャンに派遣された。先住民は来なかった。テンプラーはまた、アメリカ独立運動に同情的な商人が、物資を南に送るのを阻止した。[48]

カールトン総督は、退役軍人のハゼンから、5月20日のアーノルドの行動を知らされ、すぐさまモントリオールとトロワリビエールの駐屯部隊に、サンジャンを守るように命令し、ケベックの何部隊かもサンジャンに回された。他のケベックの駐屯部隊は、セントローレンス川に沿って、様々な地点に分けて派遣されており、西はオスェガチエまで駐屯していて、仮想敵の脅威から町を守っていた。[49] カールトンはモントリオールへ、防御の監督に行き、ケベックは副総督のエクトール・テオフィラス・ド・クラマシェにゆだねられた[50] 。モントリオールへ発つ前に、カールトンは、ケベック司教のジャン=オリビエ・ブリアンを説得して、軍への召集を発することを、町の防御のために支持してほしいと言った。その召集は主に、モントリオールとトロワリビエール近辺で行われた。[51]

その後のタイコンデロガ

砲台とともに野営に入るノックス

1775年の7月、将軍フィリップ・スカイラーは、8月末のカナダへの侵攻の土台として、砦を使用し始めた。[52] 1775年から1776年の冬、ヘンリー・ノックスは、タイコンデロガからボストンへの「大砲の輸送」を指揮していた。大砲はドーチェスターの台地に、包囲されたボストンの町と、港のイギリス船を見下ろす形で据え付けられた。これが、イギリス軍と王党派とが、翌年の3月に撤退するきっかけとなった。[53]

ベネディクト・アーノルドは、バルカー島の戦いで再び艦隊を率い、イギリス軍の砦奪還の野望をくじく、重要な役割を演じた[54]1777年7月サラトガ方面作戦で、イギリスはタイコンデロガ砦包囲戦の結果一度は砦を取り戻したが、ジョン・バーゴインが10月に降伏してから後に、砦を放棄した[55]

イギリス軍の指揮の混乱

当時、タイコンデロガ砦は軍事上重要な砦ではなかったが、ここを攻略したことでいくつかの大きな結果が得られた。この地域での、反逆者への監視が、ケベック、ボストン、後にニューヨークのそれぞれのイギリス軍の、陸路での連絡や補給が困難になる原因を作り、イギリス軍は、指揮の構造を調整する必要に迫られた。[56] この変化は、アーノルドがサンジャンへ向かう途中、カールトンからゲージへの、ケベックの駐屯部隊を強化する旨の手紙を奪ったことにおいて明らかである。[57] 北アメリカのイギリス軍の指揮系統は、かつて、シングル・コマンダー(コマンダー・イン・チーフ)だったのが2つに分けられ、カールトン総督が、ケベックや北方の部隊で命令を出しており、一方、イギリス軍の将軍ウィリアム・ハウ大西洋岸に展開する軍の指揮を執っていた。この方法は、フレンチ・インディアン戦争時のウルフアマースト両将軍の時にはうまく機能したが[56]独立戦争では、2つの軍の協力体制は、問題含みとなり、1777年サラトガの戦いで、ハウが、明らかに、協定によって決められた北部の戦略を放棄して、南部の支持がなかったバーゴインを置き去りにしたような、そういう失敗もあったのである。[58]

アレンとアーノルドの口論

アーノルドの左向きの肖像画。上着の肩章に星が2つついている。H.B.ホール作

砦の攻略の当日から、アレンとアーノルドは口論を展開し始めた。お互いが、出来るだけ多くの、指揮官たる信用を得ようとしていた。アーノルドはアレンとその兵士たちに、指揮官としての権威を示すことができなかったこともあり、日々の出来事と行動、それも、アレンに対して批判的かつ軽蔑的な内容のものを、日記につけるようになった。[33] アレンのほうも、砦の攻略後ただちに、自分の回想録をつけ始めた。何年かのちにこの回想録は出版されたが(関連書籍参照)、この回想録はアーノルドへの言及がことごとく欠けている。アレンは、攻略に関してのいくつかの報告書も執筆しており、ジョン・ブラウンとジェームズ・イーストンが、ニューヨーク、コネチカット、そしてマサチューセッツの多くの議会や委員会にこれを持ち込んだ。これに関しては、研究者によって見方が分かれる。イーストンが、マサチューセッツの委員会に、この2人の手になる報告書を持って行ったが、都合のいいことに、アーノルドが書いた方を途中で紛失し、アレンの報告書が正規のものとされ、この攻略における英雄とされ、人々の間に広まったという説がある。[59] 一方では、イーストンはどうやら、アーノルド自身の指揮に異論を唱えることに、関心があったようだと示唆している。[60] イーストンとアーノルドが憎み合っていたのは明らかである。1775年の6月10日、アーノルドが艦隊を率いて湖を航行していた時、アレンとイーストンはクラウン・ポイントに戻って作戦会議を開いていた。これはどう見ても軍の儀礼に違反していた。また、アーノルドは、自分の指揮下にある兵が、駐屯隊を仕切っていた時、自らの権限を強く主張した。イーストンが、アーノルドを侮辱したため、アーノルドが決闘で決着をつけようと言った。後にアーノルドはこう伝えた。「イーストンは、剣をつけたうえに、両方のポケットに、それぞれ弾を込めたピストルのケースを入れていた。紳士らしく剣を抜くのを、はねつけたものだから、こっちは思う存分奴を蹴飛ばして、ここから出て行けと言ってやったよ」[61]


  1. ^ Pell (1929), p. 81によれば、この証拠はない。 Boatner (1974) (pp. 1101–1102) では、アーノルドが単にアレンの後について歩いくのを許されたとなっており、 The Taking of Ticonderoga in 1775. Bellesiles (1995), p. 117では、アレンがアーノルドの気持を鎮めるために、先頭を歩かせたのだと主張している。
  1. ^ P. Nelson (2000), p. 61
  2. ^ a b Bellesiles (1995), p. 117
  3. ^ Smith (1907), p. 144
  4. ^ a b c Randall (1990), p. 104
  5. ^ a b Ward (1952), Volume 1, p. 69
  6. ^ a b Chittenden (1872), p. 109
  7. ^ a b Jellison (1969), p. 131
  8. ^ a b Ward (1952), Volume 1, p. 68.
  9. ^ a b Randall (1990), p. 86.
  10. ^ a b Ward (1952), Volume 1, p. 64.
  11. ^ Drake (1873), p. 130.
  12. ^ Gage (1917), p. 397.
  13. ^ Lanctot (1967), p. 49.
  14. ^ Randall (1990), p. 85.
  15. ^ Randall (1990), p. 87.
  16. ^ a b Bellesiles (1995), p. 116.
  17. ^ Boatner (1974), p. 1101.
  18. ^ Ward (1952), Volume 1, p. 65.
  19. ^ J. Nelson (2006), p. 15.
  20. ^ Randall (1990), p. 86–89.
  21. ^ a b Randall (1990), p. 90.
  22. ^ Smith (1907), pp. 124–125.
  23. ^ a b Randall (1990), p. 91.
  24. ^ Phelps (1899), p. 204.
  25. ^ Jellison (1969), pp. 114–115.
  26. ^ Randall (1990), p. 95.
  27. ^ a b Randall (1990), p. 96.
  28. ^ a b Randall (1990), p. 97.
  29. ^ Jellison (1969), p. 124.
  30. ^ Chittenden (1872), p. 49.
  31. ^ J. Nelson (2006), p. 40.
  32. ^ Chipman (1848), p. 141
  33. ^ a b c Randall (1990), p. 98
  34. ^ Smith (1907), p. 155
  35. ^ Morrissey (2000), p. 10
  36. ^ Randall (1990), p. 101
  37. ^ Randall (1990), p. 103
  38. ^ Smith (1907), p. 157
  39. ^ Lanctot (1967), pp. 44,50
  40. ^ Randall (1990), p. 105
  41. ^ a b Lanctot (1967), p. 44
  42. ^ Randall (1990), p. 106
  43. ^ a b J. Nelson (2006), p. 53.
  44. ^ J. Nelson (2006), p. 61.
  45. ^ Randall (1990), pp. 128–129.
  46. ^ Lanctot (1967), pp. 55–60.
  47. ^ Jellison (1969), p. 120.
  48. ^ Lanctot (1967), p. 45.
  49. ^ Lanctot (1967), p. 50.
  50. ^ Lanctot (1967), p. 53.
  51. ^ Lanctot (1967), p. 52.
  52. ^ Smith (1907), p. 250.
  53. ^ French (1911), pp. 387–419.
  54. ^ Randall (1990), pp. 290–314.
  55. ^ Morrissey (2000), p. 86.
  56. ^ a b Mackesy (1993), p. 40.
  57. ^ J. Nelson (2006), p. 42.
  58. ^ Van Tyne (1905), pp. 161–162.
  59. ^ Randall (1990), p. 99.
  60. ^ Smith (1907), p. 184.
  61. ^ Randall (1990), p. 121.





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