タイコンデロガの攻略 植民地軍の会議

タイコンデロガの攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 03:39 UTC 版)

植民地軍の会議

タイコンデロガ砦

アーノルドは、命令を受けるとすぐにそこを発った。2人の大尉が同行していた、イリーザー・オズワルドとジョナサン・ブラウンで、兵を徴集する役目だった。5月6日、アーノルドはマサチューセッツと特権地の境界に着いた。そこでは、コネチカットの委員会が徴兵に奔走しており、イーサン・アレンとグリーン・マウンテン・ボーイズ(ニューハンプシャー特権地の民兵)が既に北に向かったのを知った。アーノルドは猛烈に北へと馬を走らせ(その馬はその後息絶えた)、翌日バーモントのベニントンで、アレンの遠征隊に追いついた。[20] そこでアーノルドは、アレンはそこから50マイル(約80.5キロ)ほど北に行ったキャッスルトンで、支援物資と他の兵を待っていると聞かされた。アーノルドはこういう忠告も受けた、アレンの隊は公式な認可を受けていないが、彼の兵は、他の指揮官のもとでは従軍しないだろう。翌日早くにアーノルドは出発し、時間通りにキャッスルトンに着いて作戦会議に参加した。そこで彼は、マサチューセッツの委員会から公認されたやり方に基づいて、砦へ遠征すると述べた。[21]

アレンがキャッスルトンで合流した軍は、100人のグリーン・マウンテン・ボーイズがいて、うち40人ほどがジェームズ・イーストンとジョン・ブラウンにピッツフィールドで育成されていた。他にコネチカットからの兵士が20人いた。[22] アレンは大佐に選ばれ、イーストンとセス・ワーナーが大尉だった。[21] アーノルドが着いた時、サミュエル・ヘリックが既にスケネスボロに行かされていて、アサ・ダグラスもパントンに、船の確保のために分遣隊を連れて出向いていた。大尉のノア・フェルプスは、「タイコンデロガ及びクラウンポイントへ遠征軍を派遣する作戦委員会」の一員であり、剃刀を探す行商人のように、実態がよく知られていない砦を偵察した。フェルプスは、荒れ果てた砦の壁を眺めた。また、駐屯隊長から、兵士の武器の火薬が湿っており、常に補給を待っている状態であることも聞かされた。[23][24] フェルプスはこの機密情報をアレンに知らせ、夜明けに奇襲する計画を立てていることも付け足した。[23]

グリーン・マウンテン・ボーイズの多くは、アーノルドの指揮の下で任務に着くのには反対した。アレン以外の指揮官の下で従軍するなら、家に帰った方がましだと言い張った。アーノルドとアレンは結局合意したが、現在、この取引を裏付ける資料は残されていない。アーノルドによれば、この遠征隊の、共同指揮権を与えられたということである。何人かの歴史家はアーノルドのこの説を支持し、他は、単に、アレンの後に着いて進軍する権利を得ただけだと言っている。[注釈 1]


  1. ^ Pell (1929), p. 81によれば、この証拠はない。 Boatner (1974) (pp. 1101–1102) では、アーノルドが単にアレンの後について歩いくのを許されたとなっており、 The Taking of Ticonderoga in 1775. Bellesiles (1995), p. 117では、アレンがアーノルドの気持を鎮めるために、先頭を歩かせたのだと主張している。
  1. ^ P. Nelson (2000), p. 61
  2. ^ a b Bellesiles (1995), p. 117
  3. ^ Smith (1907), p. 144
  4. ^ a b c Randall (1990), p. 104
  5. ^ a b Ward (1952), Volume 1, p. 69
  6. ^ a b Chittenden (1872), p. 109
  7. ^ a b Jellison (1969), p. 131
  8. ^ a b Ward (1952), Volume 1, p. 68.
  9. ^ a b Randall (1990), p. 86.
  10. ^ a b Ward (1952), Volume 1, p. 64.
  11. ^ Drake (1873), p. 130.
  12. ^ Gage (1917), p. 397.
  13. ^ Lanctot (1967), p. 49.
  14. ^ Randall (1990), p. 85.
  15. ^ Randall (1990), p. 87.
  16. ^ a b Bellesiles (1995), p. 116.
  17. ^ Boatner (1974), p. 1101.
  18. ^ Ward (1952), Volume 1, p. 65.
  19. ^ J. Nelson (2006), p. 15.
  20. ^ Randall (1990), p. 86–89.
  21. ^ a b Randall (1990), p. 90.
  22. ^ Smith (1907), pp. 124–125.
  23. ^ a b Randall (1990), p. 91.
  24. ^ Phelps (1899), p. 204.
  25. ^ Jellison (1969), pp. 114–115.
  26. ^ Randall (1990), p. 95.
  27. ^ a b Randall (1990), p. 96.
  28. ^ a b Randall (1990), p. 97.
  29. ^ Jellison (1969), p. 124.
  30. ^ Chittenden (1872), p. 49.
  31. ^ J. Nelson (2006), p. 40.
  32. ^ Chipman (1848), p. 141
  33. ^ a b c Randall (1990), p. 98
  34. ^ Smith (1907), p. 155
  35. ^ Morrissey (2000), p. 10
  36. ^ Randall (1990), p. 101
  37. ^ Randall (1990), p. 103
  38. ^ Smith (1907), p. 157
  39. ^ Lanctot (1967), pp. 44,50
  40. ^ Randall (1990), p. 105
  41. ^ a b Lanctot (1967), p. 44
  42. ^ Randall (1990), p. 106
  43. ^ a b J. Nelson (2006), p. 53.
  44. ^ J. Nelson (2006), p. 61.
  45. ^ Randall (1990), pp. 128–129.
  46. ^ Lanctot (1967), pp. 55–60.
  47. ^ Jellison (1969), p. 120.
  48. ^ Lanctot (1967), p. 45.
  49. ^ Lanctot (1967), p. 50.
  50. ^ Lanctot (1967), p. 53.
  51. ^ Lanctot (1967), p. 52.
  52. ^ Smith (1907), p. 250.
  53. ^ French (1911), pp. 387–419.
  54. ^ Randall (1990), pp. 290–314.
  55. ^ Morrissey (2000), p. 86.
  56. ^ a b Mackesy (1993), p. 40.
  57. ^ J. Nelson (2006), p. 42.
  58. ^ Van Tyne (1905), pp. 161–162.
  59. ^ Randall (1990), p. 99.
  60. ^ Smith (1907), p. 184.
  61. ^ Randall (1990), p. 121.





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「タイコンデロガの攻略」の関連用語

タイコンデロガの攻略のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



タイコンデロガの攻略のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのタイコンデロガの攻略 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS