セフト セフトの概要

セフト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 14:21 UTC 版)

セフト
欧字表記 Theft
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1932年
死没 1950年4月3日
(18歳没・旧19歳)
テトラテマ
ヴォレウス
生国 イギリス
生産者 アーガー・ハーン3世
馬主 アーガー・ハーン3世
競走成績
生涯成績 16戦7勝
獲得賞金 1万2988ポンド
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経歴

イギリスの大馬産家アーガー・ハーン3世の生産所有馬としてイギリスで走ったが、同じアーガー・ハーン3世所有の同世代に、史上11頭目の三冠馬となる バーラムがいたため、クラシック競走で優勝することはできなかった。2000ギニーステークスではバーラムとセフトで1、2着となっている。ほかエクリプスステークスで2着、ダービーステークスでは4着となっているが、バーラムと比べると短距離傾向が強く、最終的に獲得した重賞はジャージーステークス、グリーナムステークスなど、いずれも距離8ハロン以下の3つの下級重賞のみだった。

競走馬引退後は種牡馬として日本に輸入され、官営の日高種畜場に繋養された。この時期は種牡馬の爛熟期であり、1930年代の日本競馬を支えた小岩井農場シアンモア下総御料牧場トウルヌソル、その後を担ったプリメロダイオライト持込馬月友など、数多くの競争相手がいる渦中であったが、2年目の産駒からハヤタケが京都農林省賞典四歳呼馬(現・菊花賞)を制しクラシック競走を制覇、太平洋戦争中にもミスセフトが中山四歳牝馬特別(現・桜花賞)に優勝した。戦後になるとその種牡馬能力が完全に開花して次々と産駒が勝ち上がり、競馬再開翌年の1947年から1951年まで、前記の種牡馬を相手に5年連続でリーディングサイアーとなった。とくに1949年、1950年はともに2位の2倍以上、当時の史上最多勝となる年間153勝を挙げる圧倒的な強さを見せた。しかしこの1950年にセフトは心臓麻痺のため19歳で死亡している。1953年のダービー馬ボストニアンはセフト最後の代表馬になる。

牡馬クラシックに圧倒的な強さを見せたプリメロ、天皇賞に強かった国産種牡馬の雄クモハタに対し、セフトは牝馬クラシックに強く、女優高峰三枝子所有の二冠牝馬スウヰイスーを筆頭に、桜花賞、優駿牝馬合わせて7勝を挙げている。抜きんでた早熟性と軽快なスピードは、7度のレコード勝ちを記録し、セフトにとって初の東京優駿優勝馬となったトキノミノルに結実したが、同馬は10戦無敗のまま東京優駿の競走後に破傷風で死亡した。最良の産駒と目されたトキノミノルを失ったセフトの後継種牡馬は、天皇賞の優勝馬 シーマーダイナナホウシユウの父となり気を吐いたが、ほかはトキノミノルと同期のイツセイが皐月賞馬タイセイホープを生んだ程度で、競走馬としてはトキノミノルに次ぐ実績を残したボストニアンなどは大きく期待を裏切った。また活躍馬に牝馬が多かったことなどもあり、その父系はやがて続々と来日した輸入種牡馬に圧されて衰退していった。しかし現在でも母系に入ってその血を現代に繋いでいる。

またアングロアラブの父系としてはタカクラヤマ産駒のミトタカラがアングロアラブ日本リーディングサイアーに7度輝いたスマノダイドウの父となったことで父系を大きく拡大させた[1]

おもな産駒

おもなブルードメアサイアー産駒


  1. ^ ただしスマノダイドウはテンプラ疑惑の強い馬で、実父がミトタカラではないという説も根強くある。詳細は同馬の項を参照。


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