シャルル・ド・ゴール 後世

シャルル・ド・ゴール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 02:37 UTC 版)

後世

1970年11月にド・ゴールが死去したのちもゴーリストド・ゴール主義者、ド・ゴール派)はジョルジュ・ポンピドゥー率いる共和国民主連合に結集して議会内最大会派となり、ヴァレリー・ジスカールデスタンフランソワ・ミッテランといった非ゴーリズム政権下においても共和国連合として議会に大勢力を維持し続け、ジャック・シラクの下で再び政権を握った。エンジニアのアンブロワーズはド・ゴールの政府でキャリアを積み、アルカテル・ルーセントの前身のCGEを経営しながらフランスの資本主義を動かした。彼の母はサノフィ創設者の1人であった。彼自身も金融家としてパリバジェネラル・デ・ゾーなどの重役となった[32]

死去

ド・ゴールの墓
ド・ゴールが亡くなったコロンベ・レ・ドゥ・セグリーズには彼を記念した43メートルもの巨大なロレーヌ十字の十字架がある。

大統領辞任後は地方の山村コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズ英語版に住居を移して執筆活動に専念し、翌1970年11月に解離性大動脈瘤破裂により79歳で死去した。『希望の回想』と題した回想録が未完の絶筆となった。

「国葬は不要。勲章等は一切辞退。葬儀はコロンベで、家族の手により簡素に行うように」という遺言に従い、簡素に行われた。霊柩は第4偵察連隊の装甲車によって運ばれた。

フランス政府の希望により、追悼式という形での国葬もパリ・ノートルダム寺院にて執り行われた[33]。第二次世界大戦で同じ連合国のリーダーであった、チャーチルやアイゼンハワーの国葬より多くの政府参列者があった。理由として旧フランス植民地のアフリカ諸国や、軍事・経済で良好な関係を維持していた中近東諸国などからの参列が多かったことも挙げられる。墓地は希望通りコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズにある。

論文・著書

ド・ゴールは歴史や文学に通じた一級の教養人で、その文章は多くの批評家(評論家)から評価されている。2014年1月にノーベル財団は1963年度のノーベル文学賞候補80人の中にド・ゴールが含まれていたことを発表した[34]

  • 「敵方の不和」
  • 「フランス要塞の歴史的役割」
  • 「ドクトリンは先験主義たるべきか、状況主義たるべきか」
  • 「うるわしき計画」
  • 「戦争行動と指揮官」
  • 「性格」
  • 「威信」
  • 剣の刃」 - ドゴールを有名にした論文。のちに出版された。訳書は葦書房/文春学藝ライブラリー(文庫)
  • 「職業の研究」
  • 「ドイツにおける経済動員」
  • 「職業軍の錬成」
  • 職業軍を目指して」‐ 訳書「職業軍の建設を」不知火書房
  • 「機械化軍の将来」 - 戦車による機械化部隊の機動戦研究。
  • 「いかにして職業軍をつくるか」
  • フランスとその軍隊」 - 上官であったペタン将軍と決別するきっかけとなった論文。
  • 「メモランダム」
  • 大戦回顧録」 - みすず書房 6巻組、新版1999年
  • 希望の回想」 - 執筆中に死去。1巻目のみ朝日新聞社

命名

バラ、「シャルル・ドゴール」、HT、メイアン(1974)

フランス国民は彼の栄誉を讃え、ド・ゴールの名前を施設などに命名している。

これらは主な例である。ほかにもフランス国内にはド・ゴールの名を冠した道路や広場が無数にある。またフランス国外でも、カンボジアプノンペンのシャルル・ド・ゴール通りなど、フランス語圏や旧フランス植民地を中心にド・ゴール由来の名を冠した施設がある。

エピソード

  • 身長193センチメートルの長躯で、短躯であったナポレオン1世と度々比較される。容姿の面では古代ゴール人らしい顔つきをしているとされる。
  • 陸士では「雄鶏(シラノ。フランスのシンボルの1つでもある)」「アスパラガス」「コネターブル:「大将軍」の意味。)」と呼ばれていたという。これらのあだ名は身長が193センチメートルあったという彼の体格に由来している。また陸大では「エッフェル塔大尉」という名で呼ばれており、当時フランス将校でもっとも背が高く、フランスで最も高い建造物であるエッフェル塔になぞらえたものである。ド・ゴールとエッフェル塔は、同じ1890年に誕生した。
  • 陸大在学中に「勤勉にして敏鋭、博学。しかし友人との折り合いが悪く、性格的に円満を欠く」と評価されている。また、陸軍大を卒業したものの、ド・ゴールは「わが道を行く」という主義を強く持っていたため、陸軍上官との折り合いが悪く、大尉から少佐への進級に10年もかかってしまった。しかし、この間ものちに敵となるペタンはド・ゴールを可愛がっていたという。
  • 独裁的かつ強権的な姿勢から、チャーチルルーズベルトと衝突することが多く、特にルーズヴェルトはド・ゴールを「形式にこだわる旧世界的人物」「選挙で選ばれたわけではないのに指導者として君臨しようとしている」「あのような人物にはマダガスカルの知事でもさせておけばいい」[35]としてあからさまに嫌っていたという。しかし、チャーチル夫人はド・ゴール将軍の熱烈なファンだったという。
  • 「我が道を行く」という姿勢をあらゆる局面で強固に貫いたこともあり、遭遇した暗殺未遂事件は第二次世界大戦中の事件も含めて31件に及ぶ。1962年8月22日にプティ=クラマールで車での移動中に、4人組の暗殺者に機関銃を乱射されるという暗殺未遂事件に遭遇した際は、車内に銃弾を撃ち込まれながらも、運転手や同乗していた夫人ともども無事だった。車から降りて側近に怪我はないかと聞かれると、「4人がかりで人1人殺せないとは銃の扱いが下手くそなやつらだ」と述べたとされる。のちにド・ゴールが語ったところでは、彼が常に持ち歩いていた次女アンヌの遺影の額縁が被弾し、銃弾はそこで止まっていたという。
  • 好物はシチュー・野菜と肉の煮込みロールキャベツなどで、アルコールはワインを少々飲んだ。食欲は極めて旺盛だったという。また。糖尿病を患っていたものの、規則正しい生活や食事療法によって血糖をうまくコントロールしていたという。
  • フランスの核武装を推進したが、個人としては日本への原子爆弾投下のニュースを聞いた際、「人類を破滅させることを人間に可能せしめる手段」の登場に絶望感に襲われたことを、回想録の中で語っている。
  • 最後に発した言葉は「背中が痛い!」で、これは心臓発作の際に妻に訴えた言葉である。
  • ド・ゴールの死去は翌10日の昼に伝えられた。当時の大統領ポンピドゥーは「いまや、フランスは未亡人となってしまった」という格調高い演説を行った。
  • 喫煙者であった[36][37]

注釈

  1. ^ シャルル(シャルル・コルブ・ベルナール)を参照。
  2. ^ ジャンヌの父(Jules Emile Maillot, 1819-1891)、父の母(Louise Constance Kolb, 1792-1877)、その兄弟(Henri Louis Benjamin Kolb, 1808-1876)、その娘(Marie Anne Thérèse Emilie Kolb, 1855-1907)、その伴侶がオンベルグである。
  3. ^ ドイツ軍の砲撃で重傷を負い「気絶」したが、「戦死」と判断されて死体運搬車に乗せられた。しかし輸送途中に意識を取り戻し、事なきを得たという。戦死と聞かされたペタンは個人的な弔辞を作成したという。
  4. ^ 「天女の宿」には、のちにロシア連邦ソ連)の赤軍元帥となり、スターリンによって粛清されたトゥハチェフスキーがいた。トゥハチェフスキーはド・ゴールに対し、「未来は我々のものだ、くよくよするな」と捕虜生活を慰めたという。
  5. ^ その時の赤軍司令官は、共に捕虜生活を過ごしたトゥハチェフスキーだった。
  6. ^ 長男フィリップ、長女エリザベート、次女アンヌの3人の子をもうけた。フィリップの名は、当時の上官でのちに宿敵となったペタンが名付け親となり、彼自身から譲り受けた名である。次女アンヌは生まれつき知的障害を持っていたが、ド・ゴールはアンヌが20歳で亡くなるまで惜しみなく愛を注いで育てたと伝えられており、家族に対してすら内気だったド・ゴールが唯一心を開けていた相手がアンヌだったと親戚が揃って述懐している。イヴォンヌは次女アンヌの死をきっかけとして1934年にアンヌ・ド・ゴール基金を設立し、恵まれない子供たちへの援助を行った。
  7. ^ この講演を文書に纏めたものが1932年に出版された『剣の刃』である。この書は「フランス版『わが闘争』」あるいは「ド・ゴール版『我が闘争』」(ヒトラー著『我が闘争』から)とも評されている。
  8. ^ 准将相当官となるのは第二次世界大戦ののちである。このページの文末参照。
  9. ^ イギリス議会や閣僚は事を荒立てることを恐れ、それを中止させようとしたが、首相であるチャーチルの指示で放送は強行された。この放送はのちにフランスの反撃の狼煙として高い価値を与えられるが、当時直接聞いていたものはほとんどおらず、また録音されていなかったため再放送されることもなかった。しかし、翌日にはまだいくらかの自由が残っていたヴィシー政権下にあるフランス南部の新聞のいくつかがこの放送について小さな記事を掲載し、徐々に知られるようになっていった。
  10. ^ 6月7日モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルが同委員会の財政担当委員となった。
  11. ^ 1945年の閣僚にはスエズ運河会社代表のブリンデロジェ家や、シュナイダー家と姻戚関係にあるスペイン大公の子、そしてパトリス・ド・マクマオンの子孫(Mlle de Miribel)などがいた。1944年時点ではラコステがいた。
  12. ^ 辞任の真意は、議会の優位を主張する政党側に対する不満があったといわれている[12]
  13. ^ 連合の首脳陣にはド・ゴールと家族関係にあるブルジョアジーが見られる(妻のヴァンドルー家など)[8]。資金管理はロスチャイルド銀行(現在のバークレイズ)支配人のルネ・フィヨンへ委任された[14]。1952年には党の一部が分裂した。ド・ゴールは政争を嫌いRPFを解体した。彼にとって財界の支持こそが重要であり、RDFそのものは違ったのである。
  14. ^ 同年11月インドシナ銀行がルクセンブルクにコンサフリク(Consafrique)を創立した。ここには現在のソジェンのハンブローズや、ランベール系のブリュフィナ(Brufina)などが参加した。
  15. ^ 5月24日にド・ゴールはジョルジュ・ポンピドゥーに電話して官房長官に誘った。
  16. ^ 1958年9月末にリュエフは産業資本家出身のアントワーヌ・ピネー蔵相が設置した経済諮問会議の委員長となり、経済再建計画を答申した。このリュエフ委員会にはラザードのパートナーで支配人のギヨー(Guyot)とかソジェン会長ロラン(Lorain)だけでなく、パリバノーベルの重役でペシネー会長のラオウラオウも参画した[19]。ピネーはド・ゴールと意見が違ったので左遷され、フランス銀行総裁だったヴィルフリドが仕事を引き継いだ。12月にアルジェリア五ヵ年計画(コンスタンチン計画)をド・ゴールが発表した[20]。翌年初頭にかけてフランスにアメリカ資本が、一方でアフリカにドイツ資本がフランス資本の主導で誘致された[21]。なお当時のルイ・ジャキノ国大臣が夫人(Simone Lazard, 1899-1991)を通じてラザード株を20パーセント保有していた[22]
  17. ^ ド・ゴールはまた、かつての自らの党であるフランス国民連合の後身・社会共和派などを結集して、新たな与党として新共和国連合(Union pour la Nouvelle République:UNR)を結成した。1959年11月26日に同党の会計係を任されたのは、ユニリーバ重役たるミゾフ海軍大将の息子であった(Bernard Misoffe[23]
  18. ^ 元々フランスはヨーロッパ最大のウラン生産国であったが、ムナナ鉱山はユーラトムの利権となった。
  19. ^ イギリスは隣接する植民地の香港を抱えていたため、西側諸国の中では例外的に中国大陸の実効支配を達成した中華人民共和国をその建国直後に承認していた。
  20. ^ 同年にリュエフがアカデミー・フランセーズ会員となった。
  21. ^ この中立化構想は戦後になってアメリカ側でも再評価が試みられるようになった[28]
  22. ^ 1968年5月、西ドイツでは非常事態法が成立した。
  23. ^ パリバラザードがBSNを支援していたが、両行は1957年4月30日ロスチャイルド銀行とも協力してサハラ・フランス会社を設立し、ド・ゴールのユーラフリカ政策に寄与した[31]
  24. ^ この改革案自体は議会を通過させることが不可能ではなかったにもかかわらず、ド・ゴールは側近たちの反対を押し切って敢えて国民投票を行った。その真意は明らかではない。
  25. ^ パリ解放の翌日、パリ市庁舎のバルコニーから行われた民衆に向けてのスピーチ。民衆は大喝采だったが、レジスタンスの働きや自由フランス軍以外の連合軍(この時点では、フランスに展開している連合軍の部隊は、ほとんどが英軍か米軍だった)の働きについて全く言及がなかったため、一部からは顰蹙を買った。

出典

  1. ^ 石井貫太郎「ド・ゴールの政治哲学」目白大学 文学・言語学研究 第1号 2005年
  2. ^ 広瀬隆 『赤い楯』 下巻 集英社 1991年 系図53 ドゴール主義と植民地政策
  3. ^ Quelques dates clés - france.tvpro(フランス語)
  4. ^ 第二次世界大戦-「ガリアの雄鶏」の最後のプライド
  5. ^ 『ドゴール体制と大資本』 13頁
  6. ^ 大井、870p
  7. ^ 『知っておきたい現代軍事用語【解説と使い方】』78頁、「著」・高井三郎、「発行」・アリアドネ企画、「発売」・三修社、2006年9月10日。
  8. ^ a b c d e 『ドゴール体制と大資本』 12頁
  9. ^ 大井、906-908p
  10. ^ a b 小野善康 1998, pp. 162.
  11. ^ a b 『ドゴール体制と大資本』 16頁
  12. ^ a b 小野善康 1998, pp. 168.
  13. ^ 小野善康 1998, pp. 166–167.
  14. ^ 『ドゴール体制と大資本』 17頁
  15. ^ a b c d 『ドゴール体制と大資本』 14頁
  16. ^ 小野善康 1998, pp. 169.
  17. ^ a b Georges Vedel, pp. 99.
  18. ^ a b 小野善康 1998, pp. 170.
  19. ^ 『ドゴール体制と大資本』 23-24頁
  20. ^ 『ドゴール体制と大資本』 69-70頁
  21. ^ 『ドゴール体制と大資本』 75-76、83-84頁
  22. ^ 『ドゴール体制と大資本』 18頁
  23. ^ 『ドゴール体制と大資本』 27頁
  24. ^ a b 『ドゴール体制と大資本』 26頁
  25. ^ 勝俣誠「現代アフリカ入門」第1刷、1991年11月20日(岩波書店)p17
  26. ^ 納家政嗣「部分的核実験禁止条約」小学館 日本大百科全書
  27. ^ 「アルジェリア」小学館 日本大百科全書
  28. ^ a b 鳥潟優子 2003, pp. 138.
  29. ^ D. L. Hanley、Miss A P Kerr、N. H. Waites, Contemporary France: Politics and Society Since 1945, Routledge, 2005, p.19; Max Paul Friedman, Rethinking Anti-Americanism: The History of an Exceptional Concept in American Foreign Relations, Cambridge University Press, 2012, p.169.
  30. ^ オリヴィエ・ジェルマントマ『日本待望論―愛するゆえに憂えるフランス人からの手紙』竹本忠雄監修、吉田好克訳、産経新聞社1998年,p9
  31. ^ 『ドゴール体制と大資本』 67頁
  32. ^ International Biographical Center, Men of Achievement, vol.9, Melrose Press, 1983, p.635.
  33. ^ 石井貫太郎 2005, pp. 44.
  34. ^ Candidates for the 1963 Nobel Prize in Literature(英語)
  35. ^ a b 石井貫太郎 2005, pp. 33.
  36. ^ [1]
  37. ^ [2]
  38. ^ a b 『20世紀全記録 クロニック』小松左京堺屋太一立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p591。
  39. ^ 鳥潟優子 2003, pp. 142.
  40. ^ 『世界の旅路 くにぐにの物語2 フランス』p191 千趣会1978年6月1日






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