コモン・ロー 歴史

コモン・ロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/10 19:54 UTC 版)

歴史

コモン・ローの歴史は、1066年ウィリアム征服王によって英国で封建制が確立したことに始まる。その意味でコモン・ローの歴史は、英国法の歴史でもある。詳細は、英国法を参照。

ノルマン征服以前のイングランドでは、シャー (shire) と呼ばれる州に設置された民会 (shire moot) が議会と裁判所としての機能を併有し、その民会の長 (ealdorman) は、シェリフと呼ばれる代官 (shire reeve) を置いて治世にあたっていた。そこでは共同体ごとに異なり、上層階級が気まぐれに押しつけることも少なくない不文の地域的慣習によって民衆は支配されていた。裁判所は仲間内の記録も残さない非公式の会議によって構成され、対立する当事者の申立てを比べあわせて慣習や常識に従って判断するのが通常であった。もし真偽不明で結論に達することができなければ、神判決闘によって決着がつけられた。神判は、糾問主義の審理で、真っ赤に熱した鉄器を運ばせたり、熱湯が煮えたぎる大釜の中から石を掴み出させたりして、もし被告人の傷が所定の期間内で治癒すれば、彼は無罪として釈放された。もし治癒しなければ、その後直ちに死刑が執行されるのが普通であった。シャーは、ハンドレッド (hundreds) と呼ばれる村に分かれており、各ハンドレッドにもまたそれぞれ裁判所が存在し、その構成員は犯人を告発・追跡する義務を負うなど警察的な機能を有していた。このハンドレッドの構成員の告発義務がやがて私人訴追主義・弾劾主義・当事者主義的訴訟構造の発展を促すことになる。

ウィリアム1世は、国王と国王を補佐するバロンと呼ばれる貴族からなる「王会」 (Curia Regis) を設置したが、これは民会と同様議会と裁判所としての機能を併有し、国王自身が主宰していたことから、「国王裁判所」と呼ばれていた。ノルマン朝は、このようにノルマン人を支配階級とする強固な封建的支配体制を確立しつつも、古来からのゲルマン的な伝統を尊重するという妥協的な政策をとり、シャーをカウンティ (county) 、民会の長をカウント (count) 、民会を州裁判所 (county court) と名前を変え、他にも荘園法裁判所や教会法裁判所といった様々な伝統をもつ裁判所をそのまま存続させ、第一次的裁判権を与えたので、国王裁判所と多種多様な裁判所が並列して別個に裁判を行うという多元的な司法制度が続くこととなった。もっとも、シェリフのみは従来の世襲制を廃止し、国王が直接登用した有意な人物を全国各地に派遣することとし、このことが後に巡回裁判制に発展してコモン・ローの発展を促すことになった。

1154年ヘンリー2世プランタジネット朝最初の王として即位すると強力で統一された司法制度、裁判システムを創設した。特に神判を禁止して、宣誓をした市民による陪審制度を復活させたこと、全国各地に国王直属の裁判官を派遣する巡回裁判 (assizes) 制度を創設したことが地域的慣習を全国的なものに組み入れたり、格上げしたりして、法(ロー)を全国共通(コモン)のものに改め、地方ごとの支配体制のバラツキをならし、恣意的な救済をなくすことができるようにしてコモン・ローの発展を促したのである[4]。ヘンリー2世の時代に最高法官(chief justiciar)であったレイナルフ・グランヴィルが晩年にあらわした"Tretise on the Lawe of England"には、国王裁判所の主な仕事が土地所有(Landholding)の係争であることが示されている。このような経緯から、コモン・ローにおける「法」 (Law) とは、成文化された「法律」 (a law,Laws) のことではなく、不文の慣習法のことであり、判例が第一次的法源とされ、中世慣習との歴史的継続性が強調されるようになった。もっとも、当時の裁判は、民事事件と刑事事件の区別もなく、陪審も、「証人」としてその地域の常識に基づいて意見を述べればよく、必ずしも証拠が存在しなければならないというものではなかった。この点が、現代の裁判制度と異なる特徴的な要素である。

1215年マグナ・カルタは、王権が成立する前に存在するコモン・ローが王権に優位するとしてバロンの中世的特権を保護したが、ヘンリー3世の治世に、地方の名望家の出身である弁護士から人民間訴訟裁判所の裁判官を任用するようになると、徐々に貴族のみならず、コモン・ローの適用を受ける庶民 (commoner) [注釈 2]も通常裁判所による裁判を通じて王権の専制から保護される道が開かれ、コモン・ローは極めて司法的なものとなっていく。これが後に法の支配の原則の確立に結びついていく。

その後、王会は、大評議会と小評議会に分かれ、小評議会は国王評議会 (King's Concil) に発展した上で、財務府と、大法官に分かれたが、徐々に国王自身が直接裁判を主宰することもなくなり、これに変代わって聖職者や法曹が裁判を行なうようになる。そのような流れの中で財務府は、エドワード1世の治世に、「王座裁判所」 (Court of King's Bench) 、「財務府裁判所」 (Court of Exchequer) 、「人民間訴訟裁判所」 (Court of Common Pleas) [注釈 3]に分かれて発展し、第一次的裁判権を有する多種多様なゲルマン的裁判所の(今日でいうところの)上訴権にあたるものを持つものとされたことから、ここに全国各地の訴訟記録が集積するようになり、コモン・ロー裁判所 (common-law court) と呼ばれるようになった。

12~13世紀にかけて、ボローニャ大学で、ローマ法の研究が進み、1240年ローマ法大全の標準注釈が編纂されると、 全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、英国にも一部ローマ法の理論が持ち込まれた。しかし、既に英国全土の共通法ともいえるコモン・ローの発展を見ていた英国では、大陸において発展した「一般法」(ユス・コムーネ、jus commune)を取り込む必要は乏しかった。

かえって14世紀法曹一元制が確立し、13世紀~15世紀にかけて法曹のギルドである法曹院が成立すると、王権から独立して権限を行使する法律専門家の手によって徐々に、大陸法とは明確に区別される、コモン・ローの特色が形成されていった(英米法#特色も参照)。

法曹院では、徒弟制 (apprenticeship) の下で法廷弁護士候補生に高度な内容の法教育が施されるようになり、法曹が一体となってコモン・ローを整理・体系化し専門化していったが、陪審制度の下では、素人でも適正な判断をすることができるようにする必要があった。そのため専門家である法曹が素人にもわかりやすい一定の判断基準が示す必要が生じ、その結果、コモン・ローでは手続法を通じてその隙間からにじみ出てくるように実体法が形成され、大陸法系のような総則規定や抽象的な法律行為等の専門的な概念は嫌われるようになり、また、弾劾主義当事者主義 (adversarial system) を背景として、口頭主義、直接主義、伝聞法則等に支えられた高度で専門的な法廷技術が発展した。

しかし他方で、コモン・ローは、慣習から発見されるもので、人の手によって変更することができないものと考えられていたことから、実質的に公平な結論を導くため判例として拘束力を有する判決理由 (ratio decidendi) と、有しない傍論 (Obiter dictum) に分け、更に先例となっている訴訟記録における重要な事実を、現に問題になっている事件の事実と「区別」 (distinction) して先例の拘束力を免れるといった技法が編み出されるなどして、過度に専門化する傾向が生じ、次第に形式化・硬直化していった。

そのため、15世紀ころから、コモン・ローの制度によっては認められるべき救済が得られないと考える当事者が、国王に直接訴願することもできるという慣行が成立した。例えば、コモン・ローにより与えられる損害賠償では、所有地に侵入され、占拠されたことに対する賠償として不十分であり、その代わりに不法占拠者を立ち退かせるべきであるなどと主張するがごときである。ここからエクイティ(equity、衡平法)という制度が発達した。エクイティに関しては、大法官が大法官部裁判所において所管した。元来、エクイティとコモン・ローはしばしば矛盾する。そのため、一方の裁判所と他方の裁判所とが相反する裁判をなし、法廷での争いが何年にもわたって続くということもしばしば起こった。こうした状況は、17世紀にエクイティの優越が確立された後も続いた。有名な例としては、架空の事案ではあるが、チャールズ・ディケンズの『荒涼館』に登場する 「Jarndyce 対 Jarndyce」 の訴訟がある。

16世紀から17世紀にかけて、マグナカルタ以来のコモン・ローの優位、古き国制 (ancient constitution) の伝統が中世慣習との歴史的継続性の強調によって復活し、法の支配エドワード・コーク卿らの法曹によって発展し、名誉革命によって確立する。

その後、コモン・ロー裁判所とエクイティ裁判所が、1873年1875年の裁判管轄法で統合され、抵触事例 (conflict case) ではエクイティが優越することになり、現在に通じるコモン・ローの特色は一通り完成するのである[注釈 4]


注釈

  1. ^ しかし、この原理はのちの1640年の長期議会、1649年の王の処刑、1649 年の共和制、1660年の王政復古、1688年の名誉革命と翌年の権利章典の成立などで議会の力が絶対王政に対峙して強力になったため確立したものである
  2. ^ 庶民といっても、騎士 (Knights) と一定の資産を有する「名望家」 (Burgesses) のことを指す。名望家は市民とも訳されるが、誤解を招きやすい。
  3. ^ 一般的な訳であるが、平民上訴裁判所と訳する者もおり、ここでの文脈ではこちらのほうがわかりやすい。
  4. ^ 20世紀までの合衆国では、金銭賠償を規定する通常法と状況に応じた救済を与えるエクイティとが併存する状況が続いていた地区がほとんどであったが、連邦裁判所ではコモン・ローとエクイティとは同じ裁判所が管轄する。もっとも、デラウェア州では今もなお通常裁判所と衡平法裁判所とを分けており、一つの裁判所の中で通常法を管轄する部とエクイティを管轄する部とを分けているも多い。
  5. ^ 生命そのものは財産的評価が不可能であるから、故人は生命侵害による損害賠償請求権を取得し得ない。しかも、生命侵害により故人が何らかの請求権を取得し得るとしても、その請求権が発生したその瞬間に故人は既に死亡しているのであるから、その請求権は誰にも帰属することができず消滅する。したがって、生命侵害により故人に生じた損害の責任を訴えにより追及することはできない、というのがコモン・ローの(そして大陸法の)伝統的な発想であった(日本の判例残念事件を参照)
  6. ^ 違憲審査制を参照
  7. ^ 司法積極主義とも比較せよ
  8. ^ 立法府の判断は制定法の文言という形で示されるから、立法府の判断を尊重するためには、制定法を文言どおりに理解するのが大原則となる。例えば、制定法の文言上適用範囲に含まれない問題については、立法府はその問題にその制定法を適用しないとの判断をしたということができるから、制定法の文言の解釈をあれこれ工夫して適用範囲を広げれば立法府の判断に逆らうことになるわけである。

出典

  1. ^ The History of the Common Law of England by Matthew Hale1713 Matthew Hale [1] ・Commentaries on the Laws of England (1765-1769) Sir William Blackstone [2]
  2. ^ 伊藤正己『イギリス公法の原理』弘文堂、p.1。
  3. ^ 桑田三郎訳 「外国法の包括的継受は正当とされるか」 比較法雑誌7巻1-2号 p.256 中央大学比較法雑誌所収記事データベース。
  4. ^ F・W・メイトランド『イングランド憲法史』創文社、1981年、P.20頁。 
  5. ^ 上掲「アメリカ法入門(4版)」92頁
  6. ^ 参照:上掲「アメリカ法入門(4版)」50頁
  7. ^ 参照:上掲『英米判例百選(3版)』78頁






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