オットー・フォン・ビスマルク
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オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(独: Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen, 1865年からビスマルク=シェーンハウゼン伯爵〈独: Graf von Bismarck-Schönhausen〉,1871年からビスマルク侯爵〈独: Fürst von Bismarck〉, 1890年からラウエンブルク公爵〈独: Herzog zu Lauenburg〉、1815年4月1日 - 1898年7月30日)は、ドイツ(プロイセンおよびドイツ帝国)の政治家[1]。
注釈
- ^ 1865年9月15日爵命。
- ^ 1871年3月21日爵命。
- ^ ビスマルクはこの領地代えについて普仏戦争中に「ホーエンツォレルン家が狩猟上の恨みでビスマルク家にありとあらゆる強制と暴力で押し付けたもの」と不満げに語っている[3]。
- ^ フランス革命やナポレオン戦争の成果を全面的に否定し、革命フランスやナポレオンに奪われた各国の主権をフランス革命以前の正統な君主に戻すというウィーン体制の根本思想[7][8]。
- ^ ビスマルクのドイツ統一までドイツという名前の国家は存在せず、それは中欧の地方名であった。1806年まで神聖ローマ帝国という小領邦国家から成る連邦国家はあったが、この帝国の皇帝位に就いていたオーストリア帝国のハプスブルク家の権威はオーストリアにしか及んでいなかった。神聖ローマ帝国がナポレオン軍に敗れた後、小領邦国家は陪臣化・世俗化で39か国にまとめられた。正統主義を旨とするウィーン体制下になってもこの状態は維持された[9][10]。
- ^ ドイツ連邦はビスマルクの創設した北ドイツ連邦やドイツ帝国と比べて統一性が圧倒的に弱く、独立国家の連合体に過ぎなかった。連邦内の最大の大国であるオーストリアが連邦議会議長国という立場であったものの、覇権国の出現は阻止される構造になっており、連邦議会本会議においては大国も4票しか持たず、逆に小国であっても必ず1票はもっていた。しかも議決には三分の二という高いハードルが必要とされたので(連邦規約改正など重大問題は全会一致)、大国だけで勝手に決めることはできなかった。とはいえ決議案の事前交渉で各国に影響力を発揮した国は議長国オーストリアとそれに次ぐ大国プロイセンであった。そのためドイツ連邦は自然とこの両国共通の国益とドイツ政策を話し合う場と化していった[11]。
- ^ 民主主義とは自由主義の中でも極端な急進派のこと。大ブルジョワは保守派と妥協的な自由主義者が多かったが、小ブルジョワや下層民は急進的自由主義者になりやすく、彼らを民主派と呼んで一般の自由主義者と区別した[13]。
- ^ ただしこれはビスマルクが首相就任後にドイツ統一事業の中で自由主義ナショナリズムと手を組むことになったから自分の行動に一貫性を持たせるために回顧録に若いころの心情としてこう書いただけでブルシェンシャフトに実際に近づいたか疑問視する説もある[28]。
- ^ ヘーレンは今の時代は各国家や各地域が経済・通商で物質的に相互依存を深めている傾向があり、そこから抗争が生まれながらも国際関係のシステムがつくられつつあり、ナポレオンのようにそのシステムに逆らって行動する者は失敗すると説いていた。ヘーレンの対外政策に関する思想はビスマルクに影響を与えたと見られている[31]。
- ^ 今日のドイツ国旗でもある黒赤金の旗はもともとブルシェンシャフトの旗でドイツ・ナショナリズム、ドイツ統一のシンボルである。ドイツ連邦議会はこの旗を危険視して長らく使用を禁止していたが、1848年革命で誕生したドイツ国民議会により国家色に定められた[66]。
- ^ プロイセンの工業力は急成長中で国際競争力があったが、オーストリアの工業は脆弱で保護貿易が必要だった。そのためオーストリア首相シュヴァルツェンベルクはプロイセンの関税同盟に取って代わる関税連合構想を提唱したが、オーストリアを除くドイツ各国のブルジョワジーにとって魅力的だったのはプロイセンの関税同盟の方であり、関税連合構想への支持は広がらなかった[106]。結局オーストリアが屈する形で1853年2月に普墺間に通商条約が締結され、プロイセン工業にオーストリア市場を提供しつつ、英仏露に対しては関税障壁を作るということになった。これで両国の争いは一時的に収束したが、1857年の不況と1859年のイタリア統一戦争をめぐる財政破たんを経てオーストリアが保護貿易への渇望を強め、1850年代終わりから1860年代初頭にかけて関税問題が再燃することとなる[107]。
- ^ 彼らは1851年から『プロイセン週報』という機関紙を発行するようになったためこう呼ばれた。指導者は駐英大使クリスティアン・カール・ヨシアス・フォン・ブンゼン。他の主要メンバーは、アルベルト・フォン・プルタレス伯爵やロベルト・フォン・デア・ゴルツ伯爵、グイド・フォン・ウーゼドムなど。当時自由主義的になっていた皇太弟ヴィルヘルムに近い立場をとっていた[113]。
- ^ ロシアは1848年革命の際にオーストリアのハンガリー民族運動弾圧に助力したので、その借りをオーストリアが返してくれることを期待していたが、オーストリアでは1852年4月にシュヴァルツェンベルクが死去しており、以降外相カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタイン伯爵が外交を主導していた。彼はロシアの孤立状態に付け込み、バルカン半島にオーストリアの影響力を拡大させる政策を追求した[116]。
- ^ ビスマルクは妻ヨハンナに宛てた手紙の中で「(ロシア人のオーストリア人への)敵意には限りがなく、私の推測を越えている。こちらに到着して初めて私は戦争が起きると信じるようになった。ロシア外交全体がオーストリアの息の根をどうやって止めるかということ以外には何も考えていない。」と書いている[130]。
- ^ 当時のプロイセン軍制は解放戦争以来の旧態依然とした状態が続いており、改革は急務と考えられていた。だが軍部の保守派はこれに政治的意味も付加しようとしていた。すなわち兵役と予備役期間を延長することで兵の数を増やし、正規軍の新連隊を編成する一方、市民的なラントヴェーアの義務期間は縮小し、軍隊に対する王権の強化を図ろうという意図である。軍制改革は1850年代後半のオットー・テオドール・フォン・マントイフェル首相時代に軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェルが中心となって計画された。新時代内閣では自由主義的な陸相グスタフ・フォン・ボーニンのもと、この計画は押し込められていたが、アルブレヒト・フォン・ローンが陸相となった後の1860年に蒸し返された[143]。プロイセン自由主義者は「オルミュッツの屈辱」の教訓でプロイセンの軍拡が必要との認識を強めていたが、軍を衆議院の統制下に置きたがっており、そのため正規軍の長い兵役やラントヴェーア縮小は軍隊への王権強化を図るものとして反対していた[144]。
- ^ 妥協案は進歩党のカール・トヴェステン、中央左派のフリードリヒ・シュターヴェンハーゲンとハインリヒ・フォン・ジイベルの三者によりだされた。この三者はドイツ問題解決のため軍を強化すること自体は必要不可欠と考えており、また国王を追い詰め過ぎると、国王が強硬保守内閣を発足させて無予算統治に突き進む恐れがあるとの懸念から政府と妥協する必要があると考えた。彼らの提出した妥協案は兵役を3年ではなく2年とすることと多少の軍事予算減額だけを条件とした内容だった。9月17日に陸相ローンがこの妥協案の受け入れに前向きな姿勢を示したことで衆議院は一時宥和的ムードになるも同日の閣議で国王が兵役3年を譲歩することは許さないと退けたため、ローンは9月18日に前日の妥協案受け入れの意思表明を撤回し、それに反発した衆議院は9月19日に妥協案を否決している[151]。
- ^ たとえば妥協派の進歩党議員カール・トヴェステンは新首相ビスマルクを軍事内局局長マントイフェル将軍の操り人形と見ていた。ビスマルクの役割は衆議院を挑発して衆議院を暴走させることで、それを理由にマントイフェルが国王に衆議院に対するクーデタを進言する算段に違いないと疑っていた[161]。
- ^ たとえばハインリヒ・フォン・トライチュケは書簡の中で「私はプロイセンを愛しているが、ビスマルクごとき浅薄なユンカーが『鉄と血』でドイツを征服するなどと大言壮語しているとただ滑稽さが陳腐さを上回っているように思える」と書いている。陸相ローンは自分たちの目的に利するところのない「機知にとんだ無駄話」と評した。バーデン大公国外相フランツ・フォン・ロッゲンバッハはビスマルクの鉄血演説について触れた書簡の中で「この人物とこの体制に仮借ない攻撃を加えねばならない」と書いた[165]。オーストリアやバイエルンなど反プロイセン的なドイツ諸国もこの演説でプロイセンへの警戒を一層強めた[166]。
- ^ ただしラッサールの提唱する生産組合は大規模であること、また普通選挙の存在が前提となっていた。そのためラッサールはヴェステギアースドルフ生産組合について反対こそしなかったが、不満を述べて協力しなかった[183]。
- ^ 自由主義的なところがあるロシア帝国外相アレクサンドル・ゴルチャコフは、民族運動の擁護者を自負するナポレオン3世のフランスとの連携を企図しており、ポーランドにある程度の自治を認めることでフランスに恩を売り、露仏同盟を結びたいと考えていた。対してロシア皇帝アレクサンドル2世ら保守派はポーランド独立運動へのいかなる譲歩にも反対していた。つまりアルフェンスレーベン協定とはビスマルクがロシア保守派と連携して、ロシア自由主義派の狙う露仏同盟の動きを封じ込めた物であった[186]。
- ^ この時期、王妃アウグスタ、フリードリヒ皇太子夫妻、シュライニッツ宮内大臣、ゴルツ、ベルンシュトルフなど宮廷自由主義派の活動が再び盛んになっていた。彼らはアウグステンブルク公を支持して中小邦国の運動の先頭に立つことでドイツ連邦内におけるプロイセンの覇権を確固たるものとすべきと主張しており、国王もこれに影響を受けていた[203]。また国王はプロイセン軍の将校でもあるアウグステンブルク公世子フリードリヒに対して個人的好意を持っていた[204]。
- ^ オーストリアはドイツ連邦や中小邦国と異なりロンドン議定書署名国であった。ドイツ内では「デンマークがロンドン議定書を守らないのだから普墺もロンドン議定書を守る必要はなく、アウグステンブルク公を支持すべき」という声が強くなっていたが、レヒベルク外相はそういう論法はドイツ諸国以外には受け入れられないと考えていた[209]。当時オーストリアは国際的に孤立していた。ロシアとはポーランド問題以降一層関係が悪化したし、フランスとも関係が悪くなっていた(1863年11月にナポレオン3世が提唱した欧州大会議にオーストリアはヴェネツィア領有権問題をかけられる事を恐れて反対した)。そのためオーストリアとしてはロンドン議定書に反する行動をとって更に孤立を深めたり、プロイセンと敵対を深める危険を冒すわけにはいかなかった[210]。またプロイセンにドイツ統一問題での単独行動を許してプロイセンがドイツ内で名声を得るといった事態も阻止せねばならなかった[211]。
- ^ オーストリア外相レヒベルクの目標はあくまでロンドン議定書通りに両公国を一体の物としてデンマーク王冠に結び付けることにあり、議定書違反のユトランド侵攻には反対だった。オーストリア軍には占領範囲を拡大できるほど財政的ゆとりがなかったので尚更だった[215]。
- ^ オーストリアの政府・世論の多数派である大ドイツ主義者は連邦改革がまだ可能と信じていたが、レヒベルクら保守派は連邦改革は見込みなしと見ており、ビスマルクの主張する普墺の保守的連帯の方に魅力を感じていた[223]。
- ^ これまでオーストリアの関税連合構想に従って普仏通商条約を拒否していたバイエルンとヴュルテンベルクが、1864年10月にビスマルクの関税同盟解消も辞さない脅迫的な態度に屈して通商条約批准を表明した[235]。
- ^ ビスマルクはプロイセンに好意的なレヒベルクを失脚させないため、できるだけレヒベルクに歩み寄って交渉を成功させられるかのような雰囲気を作ってやるべきと訴えていたが、ルドルフ・フォン・デルブリュックら経済政策専門家がいかなる譲歩にも反対し、国王もそちらの意見を受け入れたという経緯だった[238]。
- ^ 特にフランスはこの頃メキシコ出兵が失敗に終わるのが確実な情勢となっており、その後、名誉挽回のため中欧に野心の矛先を向けてくると考えられていた。ロシアはクリミア戦争以来オーストリアを恨んでいるが、自分たちの発言権を確保したいという願望はそれ以上に強いので絶えず動揺していた[245]。一方イギリスは対デンマーク戦争の介入失敗と1865年10月のパーマストンの死で孤立主義に戻り、大陸諸国への介入を避けるようになっていたので無問題だった[246][247]。
- ^ 1863年11月にナポレオン3世が欧州大会議を提案した時、英墺がこれに反対して彼の面目を潰したのに対して、ビスマルクは好意的態度を示したので、以降ナポレオン3世は親普的になっていた。プロイセンを支援することでオーストリアとの対立を激化させてフランスが漁夫の利を得ることを考えていたと見られる。一方皇后ウジェニーは敬虔なカトリックで教皇党の領袖だったため、カトリック教国のオーストリアに共感を持っており、プロイセン排除を希望していた[251]。
- ^ ビスマルクはこの席上で次のように語った。「プロイセンこそが旧ドイツ帝国の廃墟の中から生まれ出た唯一の生存能力を持った政治的創造物である。プロイセンがドイツの頂点に立つ権利を有しているのはそのためである。しかるにオーストリアはプロイセンに嫉妬し、プロイセンの努力を昔から妨害してきた。指導能力などないくせにドイツ指導権をプロイセンに渡すまいとしてきた」「ドイツ連邦はフランスからドイツ国土を防衛するために結成されたにすぎない存在だった。真に民族的な意味を持ったことなど一度もなかった。連邦をそうした方向へ向かわせようとするプロイセンの試みは全てオーストリアによって潰されてきた。1848年はプロイセンにとってチャンスの年であった。もし当時プロイセンが演説ではなく剣でもって運動を指導していたならば恐らくはもっと良い結果が達成できていただろう」[263]。
- ^ ビスマルクはこれ以外にもロシア皇帝の革命への懸念を払拭することに力を入れたが、ロシアはもともと反墺的であり、しかもこの時期には中東やコーカサスへの出兵で財政的に困窮していたのでヨーロッパで積極的な行動に出る可能性は低く、ビスマルクとしてもロシアの好意的中立は割と安心して期待できた[268]。
- ^ オーストリア提出のプロイセン軍のみを除外した連邦軍動員案ではなく、バイエルンの折衷案(普墺をともに除外した連邦軍動員案)が中小邦国の支持を集めて決議されている。オーストリアとしては「侵略国プロイセン」と同列に扱われていることに不満もあったが、これ以上の動員案を決議させるのは難しそうだったので結局この折衷案を支持した[274]。
- ^ オーストリアと講和できるか不透明だったし、ロシアの立場も不明瞭なところがあり、この段階でフランスを敵に回してしまうと最悪の場合にはヨーロッパの現状を回復するために露仏墺三国の連携関係ができる恐れがあった。もちろんフランスに譲歩しすぎれば国王やドイツ・ナショナリズムを敵に回すことになるのでその注意を払う必要もあった[286]。
- ^ ハノーファー王国、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国、ナッサウ公国、ヘッセン選帝侯国、自由都市フランクフルトがこの条約でプロイセンに併合された[291]。
- ^ ビスマルクはヘッセン大公国首相ラインハルト・フォン・ダールヴィクが親仏的と見ていたので、この段階ではヘッセン大公国に攻守同盟を持ちかけることを見送った[294]。
- ^ ゲルラッハ(弟)ら強硬保守派はビスマルクが自由主義ナショナリズムと連携して「上からの革命」を推し進めるのを苦々しく思っており、ビスマルクとの対決姿勢を強めていた[301]。
- ^ 普墺戦争の講和交渉中に普仏間で作成した秘密協定の草案で、ビスマルクはナポレオン3世や駐ベルリン・フランス大使ヴァンサン・ベネデッティにルクセンブルク併合の期待感を抱かせた。だがその後のビスマルクは曖昧な態度でフランスとの交渉を長引かせた。メキシコ出兵失敗の挽回のため早急な外交成果を求めていたナポレオン3世は、ビスマルクから積極的な反対がなかったので賛成しているものと解釈し、1867年3月からルクセンブルク大公を務めているオランダ国王ウィレム3世とルクセンブルクを買い取る交渉を開始した。だがルクセンブルクは旧ドイツ連邦加盟国であるため、ドイツ人にはドイツの一部と看做す者が多く、ビスマルクとしてもドイツ保護者としてのプロイセンの権威を貶めないためにはこの売却交渉を阻止する必要があった。北ドイツ連邦の体制が固まっていないこの時期にフランスとの戦争に突入するわけにはいかなかったので、ビスマルクは直接には反仏姿勢を打ち出さず、南ドイツ諸国との秘密攻守同盟の存在を公表したり、国民自由党党首ルドルフ・フォン・ベニヒゼンに反仏演説を行わせるなどして、ドイツ・ナショナリズムを高めることでオランダ王に売却を断念させた。そして5月7日から11日にかけて開催されたロンドン会議でルクセンブルクの永世中立国化が決定した。この結果にフランスは強く反発し、普仏関係は決定的に悪化した[317]。
- ^ ロシアはフランスが敗戦すればクリミア戦争時に結ばされたパリ条約を破棄できるので親普的な立場を取っており、オーストリアが動かないよう牽制してくれた。イギリスは親普的というわけではないが、フランスが敗れればヨーロッパ内の主導権争いやアジア・アフリカでの植民地争奪戦でフランスに対して優位に立てると考えていたので、ナポレオン3世のために介入する意思はなかった。イタリアもフランス軍がローマから撤退せず、イタリア統一を妨害していることに苛立っていた。オーストリアもドイツ人の間で反仏感情が高まっており、またロシアに牽制されているために動けなかった[322]。
- ^ ビスマルクの発表した電報は、フランス大使の要求をそのまま掲載しつつ「それに対して陛下はフランス大使に謁見されることを拒否され、これ以上話すことはないと通達された」としていた。「話すことはない」というのは国王からの原文の電報では「現在の情報入手状態」についてのことだったが、この部分を省く事で「交渉の余地はない」という意味かのようにすり替えた[323]。
- ^ 古代ゲルマン民族や中世ドイツでは共同して出征する場合に統領を選出していた[333]。
- ^ バイエルンには鉄道・郵便・電信について独自行政権が認められた。ヴュルテンベルクも郵便について独自行政権が認められた。また皇帝のバイエルン陸軍への指揮権は戦時に限定され、平時には戦闘能力が十分かどうか確認する査察権のみということになった。ヴュルテンベルク国王もヴュルテンベルク陸軍の軍事行政について独自の権利を残した。これらはドイツ・ナショナリストから批判を買った[334]。
- ^ 「文化闘争」という名称は、1873年に自由主義左派のプロイセン衆議院議員ウィルヒョーが「(ドイツ国民を反近代へ後退させようとするカトリック教会から)文化を守るための闘争」と定義したことに因む[344]。
- ^ 普仏戦争後フランスが早期に復興を遂げて賠償金を支払い終えて軍備拡張を図る中の1875年4月8日にドイツ政府系新聞『ポスト』紙は「戦争が迫る?(Ist der Krieg in Sicht?)」という論説を載せ、それがきっかけでフランスに対する予防戦争を行うべしとのドイツ世論が強まった。ビスマルクに予防戦争の意思はなかったが、「フランスは孤立しており復讐を企むのは無駄である」ことをフランスに思い知らせようと企図していた。しかしフランス外相ルイ・ドゥカズの巧みな外交もあってイギリスとロシアはそろってドイツに対して「フランスが復讐や領土奪回をたくらんでいるとは思えない。フランスへの対決政策をやめなければ重大な結果を招くことになる」旨を警告し、逆にドイツの孤立が明らかになってしまった[413][414]。
- ^ 社会主義者を住居から立ち退かせる権限を警察に認める条項[482]。
- ^ サムエル記下第12章の故事。それによればイスラエル王ダビデは、部下のウリヤの妻を奪うためにウリヤを討死させるよう司令官に手紙を送ったとされる[505]。
- ^ 『ドイツの特殊な道』論とは、第二次世界大戦後に生まれたドイツ史の歴史観である。1848年革命でドイツの自由主義・議会主義が「挫折」したことが、近代ドイツを近代英仏と異なる「特殊な道」に進ませ、最終的にナチス政権に至ったとする見解である。西ドイツでも東ドイツでもこのようなことが論じられていたが、西ドイツではその後、この論は批判されることが多くなった。「特殊な道」論の前提として「普遍的な道」があるはずだが、それは市民革命の担い手たる「革命的ブルジョワ」という英仏近代史像の「神話」に立脚したものに過ぎないという批判からである[554]。
出典
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固有名詞の分類
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