エメラルド仏 エメラルド仏の概要

エメラルド仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/22 01:38 UTC 版)

エメラルド仏
エメラルド仏

伝来

その伝来はよく分かっていないが、『エメラルド仏年代記』[1]や『ジナカーラマーリー』[2]などの伝説によれば、高僧ナーガセーナ長老が考案し、インドラ神とその配下のヴィッサカンマ(ヴィスカンマ)がつくったとしている。

その後、エメラルド仏はマガダ国の都パータリプトラ(Pataliputra 〈パーリ語: パーターリプッタ、Pataliputta〉)にしばらく安置されていたが、内戦によりパーターリプトラに安置することが困難となり、その王シリダンマキッティによりスリランカに運ばれた。

エメラルド仏が東南アジアに戻ったのは、アリマッダナ(パガン王朝)のアニルッダ王(アノーヤター?)が西暦457年[3]、国内の三蔵経がずさんな内容のものであると知り、スリランカに完全無欠の三蔵経を求めてスリランカに行ったことによる。アニルッダはその帰路、2隻の船に完璧な三蔵経とエメラルド仏を積んで帰ったが、2隻の船のうち三蔵経とエメラルド仏を運んだ船の方がインダパタナガラ(マハーナガラ、現在のアンコール・トム)に流れ着いた。この後、アニルッダはインダパタナガラの王を脅しつけて、三蔵経を返してもらったがエメラルド仏については失念した。このためエメラルド仏はインダパタナガラにとどまった。

伝承によると、インダパタナガラでは王の息子がアブラバエを飼っており、バラモンの息子がクモを飼っていたが、このクモが国王の息子の飼っているアブラバエを食い殺した。このため、王の息子は悲しみ、王はトンレサープ湖でバラモンの息子を殺した。これを知ったバラモンは王を呪い退散した。そして、ナーガ(竜)の王が洪水を起こし、インダパタナガラを壊滅させた。壊滅の真相はともかく、これによりエメラルド仏はアユタヤのアッディカー(アディッチャ)[4]に帰することになった。

アユタヤ移動後、エメラルド仏はカムペーンペットの国主によってカムペーンペットに持ち込まれた。カムペーンペット歴史公園にあるワット・プラケーオはこのときエメラルドブッダが安置された寺と考えられている。その後、ラーンナークーナー王の弟、マハープロムがカムペーンペットからエメラルド仏を持ち去り、チエンラーイに安置した。その後、ラーンナー王セーンムアンマーとマハープロムが抗争を起こしたため、エメラルド仏は戦火の中、密かに隠された。

1434年、チエンラーイのある寺の仏塔落雷で破壊されたとき、その中から漆喰でできた仏像が見つかった。しばらくして、ある仏僧がその漆喰の仏像の鼻がもげているのを見つけ、よくよく調べると中にヒスイの仏像が入っていたといわれている。現在では、チエンラーイにあるワット・プラケーオがこの寺であったといわれている。

仏像発見後、ラーンナーのサームファンケーン王(即位:1401年 - 1442年?)は白象をもってエメラルド仏をチエンラーイから首都のチエンマイまで運ぼうとしたが、三度試しても象がラムパーンに引き返すので、王はチエンラーイにエメラルド仏を運ぶのを止めた。その後、サームファンケーン王の6男であるティローカラート王の手により、エメラルド仏のチエンマイへの運び込みは1468年にようやく成功した。

1548年ラーンサーン(現在のラオスにあった国)の王の座にも就いたラーンナーのセーターティラート王は、1551年にエメラルド仏をラーンサーンの首都ルアンパバーンへ運んだ。1564年ビルマタウングー王朝)の侵攻を懸念したセーターティラート王によって、仏像はさらに新しい首都ヴィエンチャンに運ばれ、ラーンサーン分裂後はヴィエンチャン王国によって保持された。

1777年トンブリー王朝(シャム)のタークシン王がビルマ(コンバウン王朝)と繋がっていたヴィエンチャン王国へ侵攻すると、1779年ラーマ1世(当時はタークシン王に仕える将軍)がヴィエンチャンから略奪してトンブリー(現在のバンコク)へと持ち帰った。後にラーマ1世がチャクリー王朝を開くと、エメラルド仏は1784年からラーマ1世が設置したワット・プラケーオに安置されることとなり、そのまま今日に至っている[5]

脚注


  1. ^ ตำนานพระแก้วมรกต 。この年代記は原本はパーリ語で記されているが北タイ語に翻訳され、さらにカミーユ・ノットンにより英訳された。 cf. 参考文献 Notton [1933]。
  2. ^ cf. 参考文献 Ratanapañña [1968]
  3. ^ Notton [1933] による。Ratanapañña [1968] は 西暦657年としている。
  4. ^ 『ヨーノック年代記』はハリプンチャイ王・アディッタの息子ディッタ王に比定している。
  5. ^ Bowring [1857] pp.317-318


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