ウィリアム・スペアズ・ブルース ウィリアム・スペアズ・ブルースの概要

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ウィリアム・スペアズ・ブルース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:20 UTC 版)

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ウィリアム・スペアズ・ブルース
William Speirs Bruce
生誕 (1867-08-01) 1867年8月1日
イングランドロンドン
死没1921年10月28日(1921-10-28)(54歳)
スコットランドエディンバラ
国籍スコットランド
市民権イギリス
教育ノーフォーク郡学校、エディンバラ大学
職業博物学者、極圏科学者、探検家
配偶者ジェシー・マッケンジー
子供エイリアム・アラステア・ブルース、シェイラ・マッケンジー・ブルース
サミュエル・ノーブル・ブルース、メアリー(旧姓ロイド)

1892年、ブルースはエディンバラ大学での医学の勉強を放棄し、南極海へのダンディ捕鯨遠征に科学助手として参加した。その後には北極海ノヴァヤゼムリャスピッツベルゲン島フランツ・ジョゼフ・ランドに航海した。1899年、当時イギリスでは最も経験を積んだ極圏科学者であり、ロバート・スコットが隊長を務めるディスカバリー遠征に応募したが、その指名が遅れたこと、ならびに王立地理学会クレメンツ・マーカム卿と衝突したことによって、ブルースが自ら遠征隊を組織することになり、イギリスの地理関連団体とは永遠に続く敵対関係になった。ブルースは極圏での働きで様々な表彰を受けた。例えばアバディーン大学からの名誉博士号であるが、ブルースもスコットランド国営南極遠征隊隊員も、権威ある極地メダルについて王立地理学会からの推薦を得られなかった。

1907年から1920年、科学と商業の両方の目的で、ブルースは北極圏に何度も旅した。スコットランド国営南極遠征の後には大きな探検事業を仕掛けることができなかったことは、宣伝技術の無さ、強力な敵の存在、さらにブルース自身の熱烈なスコットランド国粋主義の性とされている。1919年までに健康が衰え、1921年に死するまでに何度か病院に入院した。死後はほとんど忘れられた存在となった。近年、スコットランド国営南極遠征から1世紀が経って、科学的極圏探検の歴史におけるその役割に十分な認識を与える動きが行われている。

初期の経歴

生い立ちと学校教育

ウィリアム・スペアズ・ブルースは1867年8月1日に、ロンドンで生まれた。父はスコットランド人の医師サミュエル・ノーブル・ブルース、母はウェールズ出身のメアリー(旧姓ロイド)であり、その4番目の子供だった。ブルースのミドルネームであるスペアズは一族の別の系列から来ていた。その綴りは通常の"Spiers"とは異なって特徴があり、記者、批評家、伝記作者には問題を引き起こしていた[1]。ブルースの子供時代は、ロンドンのホランドパーク、ロイヤル・クレセント18にあった家族の家で過ごし、祖父のウィリアム・ブルース牧師の後見を受けた。近くにあるケンジントン・ガーデンズを定期的に訪れ、時にはロンドン自然史博物館に行った。父のサミュエル・ノーブル・ブルースに拠れば、このような外出行動が幼いウィリアム・ブルースの生命と自然に対する興味に火をつけた[2]

1879年、ブルースが12歳のときに、ノーフォークのノースエルマンの村にある進歩的な寄宿制学校であるノーフォーク郡学校(後のワッツ海兵学校)に送られた。1885年までそこに留まり、その後にハムステッドのユニバーシティ・カレッジ・スクールで2年間を過ごし、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの医学校に入るための入学試験の準備をした。ブルースは3度目の挑戦で試験に合格し、1887年夏には医学の勉強を始める準備ができた。

エディンバラ

1887年夏、ブルースは北のエディンバラに旅し、博物学の一組の余暇コースに出席した。その6週間のコースはフォース湾のグラントンに設立されたばかりのスコットランド海洋ステーションで開催され、パトリック・ゲデスとジョン・アーサー・トムソンが指導し、植物学や実践的動物学が含まれていた[3]。このグラントンでの経験と、当時最前線の博物学者と接したことで、ブルースはスコットランドに留まる決心をした。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの籍は放棄し、エディンバラ大学の医学校に入学した[4]。このことでゲデスやトムソンのような庇護者との接触を維持でき、自由な時間はエディンバラ研究所で働く機会も得られた。そこでは、チャレンジャー号探検航海(1872年-1876年)から持ち帰られた標本が検査され、分類されていた。ブルースはここでジョン・マレー博士とその助手であるジョン・ヤング・ブキャナンの下で働き、海洋学について深い知識を取得し、科学的調査の原則については貴重な体験をした[3]

最初の航海

ダンディ捕鯨遠征

典型的セミクジラの大きさを示すイラスト、人の大きさと対比させてある

1892年から1893年のダンディ捕鯨遠征は、南極海でのセミクジラの生息域を突き止めて、その商業捕鯨の可能性を調査する試みだった[5]。科学的観測と海洋学の研究も、バリーナアクティブダイアナポーラースターという4隻の捕鯨船で行われた[6]。ブルースはヒュー・ロバート・ミルからこの遠征に推薦された。ミルはグラントンの時から知り合いであり、当時はロンドンの王立地理学会の司書をしていた。それに参加することは、医学の勉強ができなくなることだったが[A]、ブルースは躊躇せず、助手のウィリアム・ゴードン・バーン・マードックと共に、アレクサンダー・フェアウェザー船長の下にバリーナで任務に就いた。4隻の船は1892年9月6日にダンディを出港した[7]

ブルースは、比較的短い遠征後の1893年5月にスコットランドに戻った。この遠征は主目的からいうと失敗であり、科学的作業については限られた機会しか得られなかった。セミクジラは見つからず、遠征の損失を少なくするために大量のアザラシの殺戮が命ぜられ、皮、油、脂肪が確保された。ブルースはその殺戮に加わると期待されたので、特に不快だった[8]。この航海から得られた科学的成果は、ブルースの言い方で「惨めなショー」だった[9]。ブルースが王立地理学会に宛てて書いた手紙では、「マスター(フェアウェザー船長)の総体的態度は科学的な仕事にとって好ましい状態とははるかに遠いものだった」と記していた[10]。ブルースは海図に接することも拒否され、現象の起こっている正確な場所も特定できなかった。気象学など観測を行う場合には「ボートで」行うことを求められ、標本を作るために如何なる設備も宛がわれず、標本の多くは乗組員の不注意な取り扱いによって失われた。それでも、王立地理学会に宛てた手紙の最後には「これら全ての挫折にも拘わらず、有益で喜ばしい経験となったものに私を助けてくれたことで、学会に感謝しなければならない」と締め括っていた[10]。ミルに宛てた手紙では、南極に再度行きたいことを説明し、「今回味わったことが私を貪欲にした」と付け加えていた[11]

ブルースは数か月の内にサウスジョージアに向けた科学的遠征の提案を行ったが、王立地理学会はその計画を支持しなかった[12]。1896年初期、ノルウェーのヘンリク・ブルとカルステン・ボルクグレヴィンクと協力して、南磁極に到達する試みを検討した。これも実現には至らなかった[12]

ジャクソン=ハームズワース遠征

1895年9月から1896年6月、ブルースはベン・ネビス山山頂の気象観測所で働き、科学的手続きや気象観測機器に関してさらに経験を深めた[13]。1896年6月、再度ミルの推薦で、その地位を離れてジャクソン=ハームズワース遠征に加わった。その遠征は北極海のフランツ・ジョゼフ・ランドで3年目に入っていた[14]。フレデリック・ジョージ・ジャクソンが率いており、新聞界の大立者アルフレッド・ハームズワースが資金を出して、1894年にロンドンを出港していた。20年前にオーストリアの遠征隊が発見したが、まだ適切な地図ができていなかったフランツ・ジョゼフ多島海の詳細な測量を行っていた[15]。ジャクソン隊は、多島海の諸島では最も南のノルトブルク島のケープ・フローラに基地を置いていた。遠征船ウィンドウォードが定期的に往復して物資を補給しており[16]、ブルースもその船で1896年6月9日にロンドンを出港した。

ウィンドウォードは7月25日にケープ・フローラに到着した。ブルースは、ジャクソンの遠征隊に加えて、思いがけずフリチョフ・ナンセンとその仲間であるイェルマー・ヨハンセンを見つけた。この2人のノルウェー人は、北極点に向けてその船であるフラム号を離れてから1年間以上、氷の上で生活してきていた。数千平方マイルある北極海で人が住んでいる地点に来るという、全くの偶然だった[15]。ブルースはナンセンに会ったことをミル宛ての手紙に書いており[17]、その著名なノルウェー人と知り合いになれたことは、将来的に多くの忠告や激励を得られることになった[18]

ブルースは、ケープ・フローラにいた間に、大変な気象条件になることが多かった中で、約700種の動物学的標本を集めた。ジャクソンに拠れば、「温度計がセロ点以下に下がった中で、氷のように冷たい水に手を出すのは楽しい仕事ではなく、また夏に雪とぬかるみと泥の中を動物を探して何マイルもトボトボ歩くのは大変だったが、ブルース氏がそれをやっていた。」と記していた[19]。ジャクソンはノルトブルク島の北端、座標で北緯80度55分にある岬をケープ・ブルースと名付けた[20]。ジャクソンは、ブルースが自ら集めた標本について所有者としての態度をとることに不満だった。ブルースは遠征隊の他の発見物と共にそれらを大英博物館に預けることを拒否した。この「科学的うぬぼれに向かう傾向」と[17]対人関係を良くする技術の欠如とが、ブルースの性格的欠陥であり、その後の人生でも災いすることがあった[17]

北極海航海

プリンセス・アリス甲板のアルベール1世、手前は解体されたクジラ

ブルースはフランツ・ジョゼフ・ランドから戻ると、エディンバラで元の庇護者ジョン・アーサー・トムソンの助手として働き、ベン・ネビス測候所の仕事も再開した。1898年3月、民間のヨットブレンカスラで、アンドリュー・コーツ少佐が行うノヴァヤゼムリャスピッツベルゲン島周辺の北極海での狩猟航海に加わるよう誘われた。この誘いは当初、王立地理学会から休暇を取得できなかったミルからだったが、再度ブルースを代理として提案された[21]。アンドリュー・コーツは羽振りの良い製糸産業のコーツ家の一員であり、ペイズリーにはコーツ天文台を設立していた[22][B]。ブルースは1898年5月に、ノルウェーのトロムソブレンカスラに乗り、その後はバレンツ海を探検し、ノヴァヤゼムリャの双子島、コルグエフ島と進み、その後北東ノルウェーのヴァードーに戻って、スピッツベルゲン島に行くための物資を補給した[23]。ミルに宛てた手紙で、ブルースは「これは純粋にヨットの巡航であり、人生は贅沢である」と報告していた。しかしその科学的作業は衰えることなく、「私は気象観測と海面温度の計測に4時間を使っている。...ブキャナンの比重計で塩分濃度を調べ、私の引網はほぼいつも働いている」と記していた[24]

ブレンカスラはスピッツベルゲンに向かったが、氷に阻まれたのでトロムソに引き返した。そこでは調査船のプリンセス・アリスと遭遇した。その船は、指導的海洋学者であるモナコ大公アルベール1世のために建造されたものだった。ブルースは大公がプリンセス・アリスでスピッツベルゲン近くでの水界地理学の調査にブルースを招待したのでブルースは喜んだ。プリンセス・アリスはスピッツベルゲン本島の西岸を北上し、アドベントフョルデンやスメーレンブルクを訪れた。その航海の最終段階で、ブルースは航海の科学観測の任務を与えられた[25]

ブルースは次の夏にもアルベール大公からスピッツベルゲンへの海洋学的巡航に加わるよう誘われた。北緯80度にあるレッド湾で、ブルースがその地域の最高峰に登山し、大公がその栄誉を称えて「ベン・ネビス」と名付けた[26]プリンセス・アリスが水中の岩礁に座礁して立ち往生したとき、アルバート大公は船が脱出できないかもしれないと考え、ブルースに冬季宿営の準備を始めるよう指示した。幸運にもプリンセス・アリスが浮きあがて脱出でき、修繕のためにトロムソに戻ることができた[21]


  1. ^ 実際にブルースは医学の勉強を始めず、医師としての資格を取らなかった。後のドクターという肩書は名誉学位である
  2. ^ ブルースがこの一家と親しんだことは後に大きな恩恵となった。数年後の南極遠征では財政的援助をしてくれた
  3. ^ マーカムの手紙の調子、特に「誤ったライバル関係」というからかいは、その後も長くブルースを苦しめた。1917年に彼の国会議員チャールズ・エドワード・プライスに宛てた手紙では、この言葉を引用していた。このときブルースは極地メダルに対する運動を続けていたSpeak, pp. 129–31
  4. ^ 船と岸の隊員リストについては文献Speak, pp. 67–68を参照
  5. ^ まだ探検されていなかった南極大陸を、王立地理学会は便宜上4つの地理的区域に分けた。すなわち、ろす、ビクトリア、エンダビー、ウェッデル海である
  6. ^ この献金は少なくとも2008年換算で150万ポンドの価値があった(Measuring Worth)。ブルースとの関係が知られていないケアードは、ケアード海岸(コーツランドの一部で、以前にブルースが命名した)と命名することでシャクルトンに対する寛大さの報償を受けた。また捕鯨船ジェイムズ・ケアードという船名もあり、シャクルトンがボートでサウスジョージアまで救援に行ったものだった
  7. ^ この名誉学位に基づき、その後のブルースは「ブルース博士」と呼ばれた。ただし、このような呼び方はイギリスの名誉学位の一般的使われ方ではない。
  8. ^ トマス・ロバートソン、スコティア船長
  9. ^ イギリスの記者によるブルースの扱い方の例がHuxley, Scott of the Antarctic, p. 52にある。「ブルースの冒険はスコティアでウェッデル海への航海が簡単に終わった。これも海氷に阻まれ、陸地に到着することなく戻った」
  1. ^ Speak, pp. 21–23.
  2. ^ Speak, p. 23.
  3. ^ a b Speak, pp. 24–25.
  4. ^ Speak, p. 25.
  5. ^ Speak, pp. 28–30.
  6. ^ Speak, p. 29.
  7. ^ Speak, p. 31.
  8. ^ Speak, p. 33.
  9. ^ Letter to H. R. Mill, 31 May 1893, quoted in Speak, p. 34.
  10. ^ a b Letter to "Secretaries of the Royal Geographical Society", quoted in Speak, pp. 34–35.
  11. ^ Letter to H. R. Mill, June 1893, quoted in Speak, p. 36.
  12. ^ a b Speak, pp. 38–40.
  13. ^ Speak, pp. 41–45.
  14. ^ Speak, p. 44.
  15. ^ a b Fleming, pp. 261–62.
  16. ^ Fleming, p. 261.
  17. ^ a b c Speak, pp. 49–51.
  18. ^ Speak, p. 50.
  19. ^ Speak, pp. 50–51.
  20. ^ Speak, p. 51.
  21. ^ a b Speak, pp. 52–57.
  22. ^ Goodlad, Voyage of the Scotia.
  23. ^ Speak, p. 54.
  24. ^ Speak, pp. 54–55.
  25. ^ Speak, pp. 56–57.
  26. ^ Speak, p. 57.
  27. ^ Speak, pp. 59–63.
  28. ^ Speak, p. 60.
  29. ^ Gazetteer for Scotland.
  30. ^ Speak, pp. 61–63.
  31. ^ a b c d Speak, pp. 69–74.
  32. ^ Speak, pp. 71–72.
  33. ^ Speak, p. 72.
  34. ^ Speak, pp. 73–74.
  35. ^ Speak, p. 75.
  36. ^ Speak, pp. 75 and 122.
  37. ^ Rudmose Brown, pp. 6–7.
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  39. ^ Rudmose Brown, p. 33.
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  42. ^ Speak, pp. 85–86.
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  45. ^ a b c Collingridge, Diary of Climate Change.
  46. ^ a b c Speak, pp. 14–16.
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  48. ^ a b c Speak, pp. 97–101.
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  50. ^ Bruce, Polar Exploration.
  51. ^ Goodlad, The legacy of Bruce.
  52. ^ Speak, p. 101.
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  54. ^ a b Speak, pp. 118–23.
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  57. ^ Speak, pp. 122–23.
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  59. ^ Huntford, pp. 376–67.
  60. ^ Speak, pp. 124–25.
  61. ^ a b Goodlad, After the Scotia expedition.
  62. ^ Speak, pp. 104–07.
  63. ^ Speak, p. 104.
  64. ^ Map, Speak, p. 110.
  65. ^ Speak, p. 105.
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  70. ^ Speak, p. 108.
  71. ^ Speak, pp. 128–31.
  72. ^ Speak, p. 129.
  73. ^ Speak, pp. 129–31.
  74. ^ Speak, pp. 131–34.
  75. ^ Speak, p. 132.
  76. ^ Speak, pp. 125–26.
  77. ^ Speak, p. 133.
  78. ^ Speak, p. 134.
  79. ^ Speak, p. 135.
  80. ^ BBC, The Last Explorers, Episode 2 of 4, William Speirs Bruce
  81. ^ Speak, p. 14.
  82. ^ Speak, p. 8.
  83. ^ Speak, p. 15.
  84. ^ Speak, p. 128.
  85. ^ Speak, p. 16.
  86. ^ Rudmose Brown, p. xiii.
  87. ^ Speak, pp. 97 and 131.
  88. ^ Speak, p. 59.


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