張横
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建安十六年(二一一)春、司隷校尉鍾繇が漢中征討の軍を催したとき、自分たちに矛先を向けられることを恐れ、馬超・韓遂・楊秋・李堪・成宜らとともに挙兵した。しかし諸将の間で不和が生じ、曹操に前後から挟撃されて大敗した《武帝紀・馬超伝》。 |
張衡
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字は霊真《張魯伝集解》。沛国豊の人。張陵の子、張魯の父《張魯伝》。 京師で出生したという。ただならぬ才覚の持ち主だったので、詔勅によって黄門侍郎に徴し出されたが、世を避けて陽平山に隠居した。忠孝を誓って民衆を導き、見識ある人々は「かの人は宗門を継承されてから、俗人を受け入れて善行を推奨した功績がある」と称えている《張魯伝集解》。 熹平年間(一七二~一七八)末期、父張陵が大蛇に呑み込まれたので、駆けずりまわって亡骸を探したが見つからず、崖の上に石を置いて目印とし、霊験を現して鶴に変化したのだと言った。光和二年(一七九)、父張陵が「正月七日に昇天いたすゆえ、張衡が天師を継承せよ」という遺書を残し、雲に乗って昇天したので、張衡が教団を引き継いだ《張魯伝集解》。 張衡が亡くなると、子の張魯が引き継いだ《張魯伝》。張衡の妻は色香があり、巫術師として劉焉の家に通っていたという《後漢書劉焉伝》。 【参照】張陵 / 張魯 / 張魯母(張衡の妻) / 劉焉 / 沛国 / 豊県 / 陽平山 / 雒陽県(京師) / 黄門侍郎 / 鬼道(巫術) / 天師 |
張衡 (科学者)
(Zhang Heng から転送)
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張 衡(ちょう こう、78年 - 139年)は、後漢代の詩人、学者及び発明家。字は平子。南陽郡西鄂県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。太史令や尚書などを歴任した政治家である一方で、天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家としても優れた才能を発揮した。また文人としても優れ、賦や絵画の名品を残した。
- ^ a b 井上雅夫 1984, p. 2.
- ^ a b c d e f g h 井上雅夫 1984, p. 3.
- ^ a b c d 井上雅夫 1984, p. 4.
- ^ a b c d 宮島一彦. “張衡(ちょうこう)とは”. コトバンク. 朝日新聞社. 2019年4月4日閲覧。
- ^ a b 井上雅夫 1984, p. 6.
- ^ 井上雅夫 1984, p. 8.
- ^ 今村明恒「地震漫談(其の30)、千八百年前の地動儀」(PDF)『地震 第1輯』第8巻第7号、日本地震学会、1936年、347-352頁、doi:10.14834/zisin1929.8.347、ISSN 0037-1114、2014年9月1日閲覧。
- ^ 井上雅夫 1984, p. 5.
- ^ a b 緒方正則 2012, p. 2.
- 1 張衡 (科学者)とは
- 2 張衡 (科学者)の概要
- 3 登場する作品
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