USPD結党、ドイツ革命
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「フーゴー・ハーゼ」の記事における「USPD結党、ドイツ革命」の解説
第一次世界大戦勃発直前の1914年7月、戦争に反対する声明を発表。さらに戦時予算案への賛成にも反対した。しかしエーベルトら党の多数派は戦争を肯定しており、ハーゼの主張は却下された。この時は党議拘束に従い、自分の意志とは逆に賛成票を投じざるを得なかった。しかし楽観視していたドイツの戦略が早くも1914年末に行き詰まると、ハーゼはますます反戦の意志を強くしてSPD執行部の戦争に対する態度に反対するようになった。そのため1915年にSPD議員団長を辞任。1916年にはSPD党首辞任に追い込まれた。 1916年、SPD内の反戦派で組織する「社会民主主義労働共同体」の会長に就任。1917年にはドイツ独立社会民主党(USPD)を結党して党首に就任し、SPDから離脱した。この党は即時講和を主張していた。1918年11月にドイツ革命が発生すると、SPDとUSPDは暫定政権として臨時人民代表委員会を組織し、両党からエーベルトとハーゼが暫定首相にあたる共同委員長となって革命後の混乱収拾にあたった。しかしこの年12月に、ベルリンにおける水兵蜂起に対してエーベルトが武力鎮圧を決定すると、ハーゼらUSPD側委員は委員会から離脱した。 1919年1月のヴァイマル制憲会議選挙で、ハーゼ自身は当選して議員団長に就任したものの、USPDの得票率は7.6%に留まった。ドイツ共産党が結成されると、党内急進派は共産党との合同及びコミンテルンへの加盟を主張、それに対してハーゼはSPDとの再合同に賛成して対立した。そうした中の1919年10月8日、ハーゼはベルリンで精神病と思われる男に銃撃されて重傷を負い、一ヶ月後に死亡した。
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