LPHとLPDの誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 01:05 UTC 版)
「タラワ級強襲揚陸艦」の記事における「LPHとLPDの誕生」の解説
ヘリコプターの発達を受けて、アメリカ海兵隊では水陸両用作戦でのヘリボーン戦術の活用について模索していた。また海軍も、その洋上拠点となるヘリ空母についての検討を進めており、当初はAPA-Mと仮称されていた。実験的に護衛空母「セティス・ベイ」を改装したのち、まず1958年度から1966年度にかけて、ヘリコプター揚陸艦(LPH)としてイオー・ジマ級7隻が建造された。またこれと並行して、ヘリコプターの運用能力は妥協しつつ、上陸用舟艇の運用能力を強化したドック型輸送揚陸艦(LPD)の計画も進められ、1959年度よりローリー級の建造が開始された。 APA-M試案の段階では上陸用舟艇のためのウェルドックが設けられていたが、実際に建造されたイオー・ジマ級では削除されており、LPHとLPDとを揚陸輸送艦 (LPA) と貨物揚陸艦(LKA)のように補完しあって運用させることが構想された。その後、1963年に行われた上陸戦能力に関する再検討により、このままでは艦隊としての重装備の揚陸能力が不足することが判明したことから、イオー・ジマ級の最後2隻にウェルドックを追加することも検討されたものの、結局は最終7番艦にLCVP 2隻のためのボートダビットを追加するに留まった。
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