Harper's Weekly引退後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:37 UTC 版)
「トーマス・ナスト」の記事における「Harper's Weekly引退後」の解説
1890年にThomas Nast's Christmas Drawings for the Human Raceを出版した。様々な刊行物、特にIllustrated Americanに漫画を寄稿したが、以前ほどの人気を取り戻すことはできなかった。ナストの漫画の手法は時代遅れとみなされ、ジョセフ・ケプラーの作品に見られるくだけたスタイルが流行した。1870年代から続いていた手の痛みを含む健康上の問題は、働く能力に影響を与えていた。 1892年、雑誌New York Gazetteの経営権を得て、Nast's Weeklyと名前を変えた。その後共和党支持に戻り、Weeklyをベンジャミン・ハリソン大統領を支持する漫画を載せる媒体として用いた。この雑誌は影響力がほとんどなく、創刊して7か月後、ハリソンが選挙に敗れてすぐに廃刊となった。 Nast's Weeklyが失敗したことにより財源はほとんどなくなった。油絵の依頼をいくつか貰い本のイラストを描いた。1902年、国務省の仕事を応募し西欧で領事の地位を確保することを望んでいた。そのような地位は手に入れられなかったが、セオドア・ルーズベルト大統領はナストのファンであり、南米のエクアドルのグアヤキルのアメリカ領事に任命している。1902年7月1日にその地位を受理し、エクアドルへ行った。その後黄熱病が発生した時にも仕事を続けており、数多くの外交使節や企業が伝染病から逃れるのを助けた。ナストもその病気にかかりその年の12月7日に死去した。遺体はアメリカに戻り、ニューヨークのブロンクスにあるウッドローン墓地に埋葬されている。
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