FICONの運用
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FICONシステムは1955年から1956年にかけて戦略航空軍団で限定的に運用された。第99戦略偵察航空団(99th Strategic Reconnaissance Wing、フェアチャイルド空軍基地)所属の母機GRB-36Dと第91戦略偵察飛行隊(91st Strategic Reconnaissance Squadron、ラーソン空軍基地)所属のRF-84Kとが併せて運用された。 その後の試験飛行はFICONコンセプトがまさに「戦術的に適切」("tactically sound,")であることを示したが、作戦運用の実施は困難なものであった。合計で10機のGRB-36Dと25機のRF-84Kが製作され、1955年から1956年にかけて限定的に運用された。母機との結合は理想的な環境下での熟練パイロットにしても危険であり、RF-84Kの中には結合しようとして損傷する機体も出て、実戦や天候不良、経験不足のパイロットによる操縦では困難であることが分かった。加えて450 ガロン (1,700 liter) 入り外部増槽を装備したRF-84を搭載した母機の最低地上高は劇的に減少し、FICONの構成では僅か15 cmしか余裕がなかった。ロッキード U-2の登場と経年によるB-36の陳腐化と相まって、こういった欠点は1956年の計画自体のキャンセルに至った。FICON計画の最後の飛行は1956年4月27日に行われた。 計画のキャンセルに伴いRF-84Kの数機は廃棄処分とされたが、その他は引き込み式のフック装置を装備したまま偵察機として運用された。国立アメリカ空軍博物館、チノにあるプレーン・オブ・フェームの「地上展示機」("Static Lot")、デンバーのウイングス・オーバー・ロッキーズ航空博物館(the Wings Over the Rockies Airspace Museum)に各1機が所蔵されている。
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