Centoとは? わかりやすく解説

セントー【CENTO】

読み方:せんとー

Central Treaty Organization中央条約機構


チェント

(Cento から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 13:59 UTC 版)

チェント
Cento
Palazzo del Governatore
紋章
行政
イタリア
エミリア=ロマーニャ
県/大都市 フェラーラ
CAP(郵便番号) 44042
市外局番 051
ISTATコード 038004
識別コード C469
分離集落 #分離集落参照
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 35291 人 (2023-01-01 [1])
人口密度 544.9 人/km2
文化
住民の呼称 centesi
守護聖人 聖ビアージョ (san Biagio Vescovo e Martire)
祝祭日 2月3日
地理
座標 北緯44度44分 東経11度17分 / 北緯44.733度 東経11.283度 / 44.733; 11.283座標: 北緯44度44分 東経11度17分 / 北緯44.733度 東経11.283度 / 44.733; 11.283
標高 15 (12 - 17) [2] m
面積 64.77 [3] km2
チェントの位置

フェラーラ県におけるコムーネの領域
ポータル イタリア
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チェント: Cento)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州フェラーラ県にある、人口約35,000人の基礎自治体コムーネ)。県内第2位の人口を持つコムーネである。

名称

地元の言葉では以下のように呼ばれる。

地理

位置・広がり

フェラーラ県の西端に位置する。県都フェラーラから南西へ約29km、州都ボローニャから北北西へ約26km、モデナから北東へ約30kmの距離にある。

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。MOはモデナ県、BOはボローニャ県を示す。

気候分類・地震分類

チェントにおけるイタリアの気候分類 (itおよび度日は、zona E, 2294 GGである[4]。 また、イタリアの地震リスク階級 (itでは、zona 3 (sismicità bassa) に分類される[5]

歴史

チェントの地名は、ローマ時代のポー平原のケントゥリアティオ (Centuriationに関連付けられる。チェントは湿地帯の小さな漁村であったが、第二千年紀に入ってから農業の町として急速な発展を見せた。

12世紀、ボローニャ司教ノナントラ修道院長は、Partecipanza Agraria と呼ばれる組織を設立した。組織の土地は、設立に携わった人々の男の子孫が20年ごとに再配分し、その家門が永続的に土地を所有できるようになっていた。

1502年、教皇アレクサンデル6世はこの土地をボローニャ司教から奪い、娘のルクレツィア・ボルジア婚資としてフェラーラ公アルフォンソ1世・デステに譲渡した。この土地は、1598年に教皇領に戻っている。

行政

分離集落

チェントには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

  • Renazzo, Corporeno, XII Morelli, Alberone, Casumaro, Reno Centese, Buonacompra

人口推移

人物

著名な出身者

ゆかりの人物

  • ベネデット・ジェンナーリ英語版 - 16~17世紀の画家。チェントで活動・死去。
  • ベンジャミン・ディズレーリ - イギリス首相。祖父はチェント出身で英国で成功したユダヤ人実業家。

姉妹都市

脚注

  1. ^ Popolazione residente per sesso, età e stato civile al 1° gennaio 2023” (イタリア語). 国立統計研究所(ISTAT). 2024年3月5日閲覧。メニューでVista per singola areaを選択。Anno:2023, Ripartizione:Nord-est, Regione:Emilia-Romagna, Provincia:Ferrara, Comune:Cento を選択
  2. ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Ferrara (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年11月3日閲覧。
  3. ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Ferrara (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年11月3日閲覧。
  4. ^ Tabella dei gradi/giorno dei Comuni italiani raggruppati per Regione e Provincia”. 新技術エネルギー環境局(ENEA) (2011年3月1日). 2017年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月20日閲覧。
  5. ^ classificazione sismica aggiornata al aprile 2023” (xls). https://rischi.protezionecivile.gov.it/it/sismico/attivita/classificazione-sismica/. イタリア市民保護局. 2023年12月16日閲覧。

外部リンク


中央条約機構

(Cento から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 01:09 UTC 版)

発足時のMETO加盟国
CENTOの旗

中央条約機構(ちゅうおうじょやくきこう、: Central Treaty OrganizationCENTO)は、1979年まで存在した集団安全保障機構。ソビエト連邦に対抗することを目的とした反共軍事同盟であった。

沿革

中東条約機構

1955年2月24日、トルコイラク王国との間で2国間の相互防衛条約(バグダード条約)が締結[1]。その後、同年11月25日に開催されたバグダート条約閣僚会議の結果、イギリスパキスタンイラン帝国が条約に参加し、中東条約機構(ちゅうとうじょうやくきこう、: Middle East Treaty OrganizationMETO、バグダード条約機構とも)が発足[2]。本部をイラクのバグダードに置いた。この他にアメリカ合衆国がオブザーバー参加している。アメリカは、ソ連に対抗するために中東諸国を自陣営に取り込む必要があり、この機構には軍事・経済的援助を行っている。

中央条約機構

1958年7月14日、イラクにてアブドルカリーム・カーシムらによる7月14日革命が勃発したため、 1959年3月24日イラク共和国(カーシム政権)が中東条約機構より脱退。これを受けて、本部をトルコのアンカラに移転し、中央条約機構と改称した。

あまり有効に機能したわけではなく、同地域で行われた印パ戦争中東戦争にはまったく関与しなかった。キプロス紛争においては軍事侵攻したトルコとキプロス国内のアクロティリおよびデケリアを統治しているイギリスが加盟国同士にもかかわらず同機構が紛争解決の役割を果たすことが出来なかった。1979年のイラン革命によるイラン帝国の崩壊を契機に解体された。

脚注

  1. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、66頁。ISBN 9784309225043 
  2. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』、71頁。 

関連項目



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