3人兄弟のエピソード
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「沼田 芸平(世遠)」の記事における「3人兄弟のエピソード」の解説
沼田芸平、福沢諭吉、長与専斎の3人は相談をして各々の雅号をつけたり、塾生等から「3人兄弟」と呼ばれたりする位仲がよかった。福沢諭吉は「雪池」、長与専斎は「松香」、芸平は「世遠」を雅号としている。 芸平は福沢諭吉が「福翁自伝」で書いた「熊の解剖」について思い出話を語っている。諭吉が適塾の塾頭の時に、薬種屋が適塾の学生に解剖をやらせ「肝さえあれば用なし」と帰ってしまった。この態度を知った適塾の学生たちは薬種屋を許せず襲撃事件を引き起こした。これを聞いた緒方洪庵は学生の乱暴狼藉に激怒した。乱暴を働いた件の謝罪をする事になるが誰も応ずるものがなく、塾頭であった福沢諭吉が責任を果たさなければならず3人兄弟で協議をした。この時に芸平は字がうまかった為、詫び状を書かされたということであった。「字が上手なおかげで、こんな役をさせられて馬鹿馬鹿しかった」と述べている。 緒方洪庵は3人に向けて、「福沢は学者が良いだろう、沼田は数学の知識に欠けるから医者になれ、長与は記憶があやしく医者の見込みはない」と言った。長与は家が代々医者であり「是非医者にしてください」と嘆願した。福沢と沼田はこれを気の毒に思って特に先生に頼んで長与は医学の許しを得たという。 長与が衛生局長となった時に沼田はその成功を祝った。長与は沼田が田舎に退いたことを惜しんだ。これを聞いた福沢は「沼田は中央にあれば長与以上の仕事をしただろうが、失敗も必ず大であっただろう」と笑ったと言う。
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3人兄弟のエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/08 14:13 UTC 版)
沼田芸平・福沢諭吉・長与専斎の3人は相談をして各々の雅号をつけたり、塾生等から「3人兄弟」と呼ばれたりする位仲がよかった。福沢諭吉は「雪池」、長与専斎は「松香」、芸平は「世遠」を雅号としている。 芸平は福沢諭吉が『福翁自伝』に記した「熊の解剖」について思い出話を語っている。諭吉が適塾の塾頭の時に、薬種屋が適塾の学生に解剖をやらせ「肝さえあれば用なし」と帰ってしまった。この態度を知った適塾の学生たちは薬種屋を許せず襲撃事件を引き起こした。これを聞いた緒方洪庵は学生の乱暴狼藉に激怒した。乱暴を働いた件の謝罪をする事になるが誰も応ずるものがなく、塾頭であった福沢諭吉が責任を果たさなければならず3人兄弟で協議をした。この時に芸平は字がうまかったため、詫び状を書かされたということであった。「字が上手なおかげで、こんな役をさせられて馬鹿馬鹿しかった」と述べている。 緒方洪庵は3人に向けて、「福沢は学者が良いだろう、沼田は数学の知識に欠けるから医者になれ、長与は記憶があやしく医者の見込みはない」と言った。長与は家が代々医者であり「是非医者にしてください」と嘆願した。福沢と沼田はこれを気の毒に思って特に先生に頼んで長与は医学の許しを得たという。 長与が衛生局長となった時に沼田はその成功を祝った。長与は沼田が田舎に退いたことを惜しんだ。これを聞いた福沢は「沼田は中央にあれば長与以上の仕事をしただろうが、失敗も必ず大であっただろう」と笑ったと言う。
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