1935年の東京巨人軍とは? わかりやすく解説

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1935年の東京巨人軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/03 14:45 UTC 版)

1935年の東京巨人軍
米国遠征成績
75勝33敗1分 勝率.694
球団組織
オーナー 正力松太郎
監督 市岡忠男(総監督)
浅沼誉夫(総監督)
三宅大輔(監督)
« 1934
1936 »

1935年の東京巨人軍(1935ねんのとうきょうきょじんぐん)では、1935年の東京巨人軍における動向をまとめる。

前年、大日本東京野球倶楽部として発足したチームは、2月14日、横浜港から秩父丸に乗り、第1回アメリカ遠征に出発した。アメリカでは、サンフランシスコでの試合を皮切りに、バスで東へ移動しながら、各地で試合を行い、デトロイトで折り返して西海岸に戻ってくる行程を取った。マイナーリーグを中心としたチームと対戦し、75勝33敗1分 勝率.694の好成績を収めた。対戦結果は日本でも連日報じられ、この活躍を受けて、全国でプロ野球チーム発足の機運が高まり、翌年のプロ野球リーグ発足に繋がった。

第1回アメリカ遠征の対戦チーム、サンフランシスコ・シールズを率いていたフランク・オドールは、大日本東京野球倶楽部のマネージャーをしていた鈴木惣太郎に、「大日本東京野球倶楽部」というチーム名はアメリカでは解りにくいから、チームの愛称を付けることを提唱した。そこで、ニューヨーク・ジャイアンツを参考にして、アメリカ遠征中は「東京ジャイアンツ」と名乗ることにした。これがきっかけとなり、大日本東京野球倶楽部は帰国後に「東京巨人軍」と改称されることになった。

できごと

  • 大日本東京野球倶楽部が初のアメリカ遠征を行い、7月16日までに2Aパシフィックコーストリーグの8球団のほか、カナダメキシコ・ハワイへも訪れ、ノンプロ・大学・在留邦人のチームと計109試合を戦い、75勝33敗1分の成績を残す。遠征中は「東京ジャイアンツ」と名乗り、チームの愛称「巨人」が事実上誕生されたとされている[1]

選手・スタッフ

脚注

注釈

出典

  1. ^ 巨人軍年表”. 読売巨人軍公式サイト. 2017年5月24日閲覧。

関連項目




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